【第268回】 円と螺旋

古希になると、少し大人になったような気持ちになってくる。60代までは、大先生(開祖)が常々言われたように、「50,60はまだまだ(何も分からぬ)鼻っ垂れ小僧」だと思っていたし、実際、何も分かっていなかったと言っていい。合気道の事はもちろん、自分、世間、世界、地球、人類、宇宙の事や自分との関係など、何も分からないばかりか、分かろうともしなかった。何が大事で、何を知るべきなのかも分からなかったし、何も知らないということが分からなかったのである。

合気道のお陰、大先生のお陰で、それが少し分かってきた。これからは、それをもっともっと深く掘り下げていくことと、解明したことを後進に伝えていくことが自分の務めだと思っている。

70年生きてきたわけだが、豊臣秀吉が辞世で詠っている「夢のまた夢」(「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」)の気持の通りで、夢のようにあっという間の出来事といってもいいだろう。一年365日をほんの70回繰り返しただけなのだから、短いと思うのも不思議ではないかもしれない。

しかし、子供のころを思い出してみると、70歳の老人は遠い遠い先の人であり、自分はまだまだ子供でいて、大人になるのはずっと先のことであると思っていた。自分の10年先さえ想像もできなかったものだ。

先の10年は長いが、過去の10年はあっという間である。これからの10年は、もっと早く過ぎることだろう。

もう70年も生きたから、そろそろこの世とおさらばしてもよいのではないかと若者は思うかもしれないが、人はたとえ100歳になろうと、またおそらく千年、万年であろうと、もっともっと生きたいと思うようである。もちろん病気で苦しんだり、何か特別な事情で死にたいと思う人もいるだろうが、それは例外といえよう。

人はよくも飽きもせず、長い間、同じことを繰り返しているものだ。朝起きて、昼間働いて、そして夜寝るを毎日、365日、何十年と繰り返している。またお正月、桃の節句、端午の節句、春祭り、秋祭りやその他の種々の祭りや行事を毎年、または数年毎に、飽きることもなく繰り返している。

合気道でも一年の行事があり、毎年、繰り返し行っている。それに、合気道は数少ない基本技を何万回、何十万回と繰り返し繰り返し稽古するものである。これらのことから考えても、我々は円の中に生きているといえるだろう。

しかし、人は円で生きてはいるが、円だけでは止まれないように出来ているようである。もし、円で生きているだけなら、昨日と今日、今日と明日は同じであるから、さらに10年も生きる意味はなくなる。

人は誰でも一年でも一日でも長く生きたいと思っている。それは同じことをやっても、明日は今日とは違い、一年後、10年後はどんなに違うだろうと思うからである。これは「螺旋」ということになるだろう。

同じことをやることは「円」であるわけだが、これは上から見たもので、これを横からみれば、前の「円」より少しづつ上昇する「螺旋」になっているはずである。

もし「螺旋」になるべきものが「円」で止まれば、明日にも10年後にも希望がないことになる。いつ止めても、もう同じことである。稽古を続ける意欲や生きる意欲がなくなる原因は、この辺にあるのだろう。

開祖はよく「節々を大事に」と言われていたが、これは技を遣う際には相手の関節をうまく抑えるということだけでなく、日常の行事や日々の「円」の生活を大事にしなさいということでもあったのだろう。

この円を大事にしながら、それを「螺旋」にしていく、これが合気道の修行であり、また生きるということだと考える。