【第268回】 自分の師

若い内や初心者の内は、物事は人から教えてもらうものだと思うだろう。確かに、はじめはその専門家や先達によって導かれた方が効率もいいし、間違いもない。しかし、問題は、教えてもらう事に長らく身をおいてくると、いつまでも物事は人から教えてもらうものだとか、教えてもらえるものだとかと思ってしまう事である。

どんなものでも、教えることには限界がある。例えば、習って覚える方が教える師のスピードより早ければ、師から学ぶものがなくなるので師から離れていくことになる。

また、教わることにも限界がある。師が教えようとしても、習う方がそれを受け入れるだけの肉体的または技術的なレベルに達していなければ、教えても意味がないので教えてくれないだろう。

この場合、習う方は師から教えてもらえないのだから、師から技を盗まなければならないことになる。それは、自分で見つけていくことである。しかし、それは容易ではないだろう。なぜなら、自分のレベルでしか師のものは盗めないからであり、よいものを盗んでいくためには、自分のレベルアップしかないのである。

盗むに足る師がいる間は幸せである.師というのはだいたい弟子より高齢と決まっているので、いつか師と別れなければならなくなる。他の師を見つけることができればよいが、だいたいは一人になるから、後は自分で見つけていかなければならなくなる。

最後まで先生や師匠について教わった名人・達人や著名人は、武道家だけでなく、学者や芸術家にもいない。彼等はある時期から師から離れ、自分で道を切り開いていったはずである。

武道は孤独であるし、孤独でなければならないといわれるが、どうもこの辺りのことをいうのであろう。師をなくして一人になるという現実と、師に頼らず、孤独になってはじめて本当の修行ができるのだ、というような意味に解釈できる。

孤独になることは、自分一人になることであるが、実は一人ではなく、孤独ではないことに気がつく。新しい、そして最高の真の師ができ、その師が教えてくれるようになるのである。それは、もう一人の自分である。いつも一緒で、いかなる時も自分や技を見てくれていて、批判したりアドバイスをしてくれる。だから、この師の言う事に耳を傾け、この師と対話をしながら修行をしていけばいいのである。この師は自分をよく知っているし、導いてくれ、最後まで別れることもない、最高の師である。

昔から、教わった事は身につかないが、自分で見つけた事は身につくし、自分の一生の財産になると言われる。やはり、孤独になってはじめて身についてくるものがあるようだ。

これからは自分の師が言う事に耳を傾け、自分と師と共に、自分の財産を増やしていくのが、精進ということになるだろう。