【第267回】 技と力

合気道の稽古は相対稽古で、技を掛けあって精進していくが、技はなかなか思うようには掛からないものである。相手に頑張られたり、相手に受けを取られてしまったりして、自分の技が効かないのである。

技が効かない理由にはいろいろあるだろうが、その最大の理由は、技の不完全成と力不足だと考える。

技が効くということを「成果」とすれば、成果=技 x 力 という公式ができると思う。だから、技があって力があれば、鬼に金棒ということになる。

例えばだが、横綱白鵬が合気道の技を身につけた時のことを想像してみるとよい。しかし、白鵬は合気道の技を知らないだろうから、合気道の技を効かせるという成果を上げることはできない。もちろん強いことには変わりないが、相手を倒そうとすれば、合気道以外の手(技)をつかわなければならなくなる。合気道としての成果は0(ゼロ)ということになるだろう。

逆に、幼児がどんなに技を知っていたとしても、力が不足しているので、大のおとなに技を効かすという成果を上げることは、難しいわけである。

成果を上げるためには、技と力が必要であるが、技は少しでも高度化し、力は強いに越したことはないことになる。

合気道には力が要らないなどと言われているようだが、それは誤解である。開祖はそんなことを一度も言われなかったし、内輪ではご自身の力自慢をよくされていたものだ。開祖が「力は要らない」といわれたのは、相手を倒すのにそんなに力を入れたり、力むことはないということだったのだろう。つまり、相手を倒すのではなく、相手が自分から倒れるようにすれば、力は要らないということであり、そうなるように、力一杯稽古をして力をつけなさいと言われていたのである。

力はあればあるほどよい。「成果」が上がりやすいはずである。しかし、物事には裏表、長短があるように、力があるとどうしても力に頼ってしまい、技の探求と練磨を疎かにする傾向がある。

力のある人や力に頼った稽古をしている人は、それがよいと思っているか、又はそれしか出来ないのだろうが、年を取ってくると体を痛め、早期退職ならぬ早期退稽古ということになるので、あまりお勧めはできない。凡人は少しづつしか上達できないのだから、少しでも長く稽古を続けるようにしなければ、目標に近づくことができないだろう。

合気道は、自分の技を完成させ、宇宙と一体化しようとするものである。宇宙の営みに少しでも近づくべく、今日より明日、明日より来年の精進を目指して、技を練り磨いていくのである。

合気道の技は宇宙法則に則っているので、技は真理であるから、技の練磨とは真理の追求と体得ということにもなるだろう。

また、人間の体は、小宇宙とも言われるように、宇宙でもあるから、小宇宙の体は大宇宙の真理に基づいて機能すべきである。合気道の稽古でも、体をそのように遣っていかなければならない。

つまり、「技」とは、自分の体を宇宙の法則に従って、遣っていくことでもあるといえるだろう。宇宙法則、つまり宇宙万有真理を、一つ一つ身につけていくのである。もちろん人間は一生かかっても、すべての真理を会得することはできないので、一つでも多く身につけるよう努力するしかない。あとは、後進が引き継いでくれるはずである。それを繰り返していく。これこそ、合気道家のロマンではないか。

「力」も、力が強いと思っている人は、たかだかそれまでに知った人間と比べて、自分は力があると思っているだけのことで、世の中は広く、自分より力を持つ人は大勢いるはずである。

さらに、合気道は人為的な力ではなく、いわゆる天地の呼吸など自然や宇宙の力を味方にしなければならないわけだから、これらの力と自分のものを比べれば、いかに小さいものかはわかるだろう。どんなに力が強いと威張っていても、台風や地震が来れば縮みあがってしまうことだろう。

「技と力」の関係をまとめると、力はつけていかなければならないが、技を遣うに当たっては、力を極力最小限でつかうようにし、その分を技で補うということになろう。開祖が大の男たちを投げ飛ばしたのは、恐らく力は箸を持つほどの小さな力であったはずだが、宇宙の法則に則った高度な技を遣われたということではないだろうか。