【第264回】 冒険者たれ

合気道は技を磨いて上達していく。だが、初心者の多くはそれを正しく理解せずに、「技の形」を繰り返し稽古をすれば上達するものと考えているようである。実は私自身も、10年ほど前まではそう考えて稽古していたと言えるかもしれない。

しかし、合気道の「技の形」はそれほど多くないのだから、数年で覚えることができ、それを繰り返し稽古しても、いつか上達が頭打ちになってしまうか、あるいは体を壊すことにもなりかねない。合気道の稽古には、もっと深いものがあるはずである。

合気道の稽古は、冒険であるともいえよう。あるかないかも証明できないような、あるいは、ある人は感じることができるかもしれないが、他の人にもできるとは保証できないような、いわゆる非科学的、超自然的なことをやっているからである。しかし、それを闇雲にやっているわけではない。開祖の言葉と思想を信じて、それを目標に稽古しているのである。

冒険には、いろいろある。合気道では、まず、宇宙への冒険がある。前述のように、合気道の技(技要素)を通して、宇宙の営みを身につけ、宇宙と一体となろうとすることである。宇宙人になろうとする冒険である。

次に、異次元への冒険である。通常の目に見える、日常の世界(顕界)から目に見えない世界(幽界、神界)へ行こうというのである。見えないものを見、聞こえないものを聞こうというのである。開祖が経験された異次元に行こうというのである。

その次は、小宇宙、つまり自分の体への冒険である。通常の生活では自分の体を知らなくても不便を感じないし、不思議も感じないだろうが、合気道で技の練磨をしていくと、体の不思議さに驚かされ、そして自分がいかに自分の体の小宇宙のことを知らないのかを思い知らされる。そうすると、この完璧な小宇宙をなに者が、なぜつくったのか知りたくなるだろう。小宇宙への冒険も必要になる。

この他にも、まだまだ多くの冒険があるはずである。合気道の修練は技の練磨だけではない。人類の歴史を見ても、文化が継承されているのは、その文化の冒険者がいたお陰だと考える。冒険者のいなくなった文化は滅んでいるはずである。

後進に合気道を継承するためにも、冒険が必要だろう。合気道同人は冒険者たろうではないか。