【第262回】天地の力、宇宙の力、神の力

科学が発達し、物質文明が進むにつれて、人は傲慢になるようだ。自然を征服したとか、克服したとか、災害を予想できるとか、災害を防げるなどと思うようになって来る。そして、金力や物力の力で何でもできるなどと思うようになって来る。

合気道の稽古でも、技をつかう場合、力を遣えば技が効くものと思って力んでしまう人が多いようである。技を遣う場合、ある程度の力は要るし、力はあった方がよい。しかし、力が強いだけでは、上手く技を遣うことはできないものである。

開祖は、よく「合気道は摩訶不思議でなければならない」と言われていた。人がものごとを言ったり、書いたり、やったりするのは、人に納得してもらうためだが、合気道の技を掛けても、その技が相手にも第三者にも納得してもらうには、摩訶不思議でなければいけないということだろう。

摩訶不思議な技であるためには、通常の技では駄目である。通常の技というのは、人為的であるということだろう。それぐらいなら稽古したら自分にでもできてしまうだろうという気にさせるのは、摩訶不思議ではなくなってしまう。開祖の技は、当時、拝見していてもそうだったが、今、ビデオやDVDを見ても、とても自分にはできそうにない摩訶不思議なものである。

開祖の摩訶不思議な技は、どこからくるのだろうか。考えるに、開祖は、鍛えに鍛えた心身で技を遣われただけではなく、ご自身以外の力を遣われていたのではないだろうか。それは、天地の力、宇宙の力、神の力である。

どんなに力があっても、人の力には限界があり、天地や宇宙や神の力には適わないはずである。また天地の力、宇宙の力、神の力は、無限で無尽蔵にあるだろうし、人知の及ぶものではない。

自分の心身を鍛えるのも必要であるが、天地の力、宇宙の力、神の力を遣うような稽古をしていかなければならないはずである。合気道の技は宇宙の営みを形にしたものと言われるから、技を正しく練磨していけば、天地の力、宇宙の力、神の力がつくはずである。正しい練磨をしているかどうかも、天地の力、宇宙の力、神の力がついてきているかどうかで、すぐにわかるはずだ。人為的な力だけで天地の力、宇宙の力、神の力がついていなければ、その練磨は正しくないことになるだろう。

どうすればそれらの超人的な力を得ることができるようになり、摩訶不思議な技がつかえるようになるのか、開祖は『武産合気』や『合気真髄』などに書き残されている。難解ではあるが、熟読玩味して技に取り入れていかなければならないだろう。