【第258回】 異質の感覚

合気道を半世紀もやっているし、これから先も修行を続けるつもりだが、何がこれだけ自分の修行を飽きもせずに続けさせているのだろう。一言でいえば、「発見の喜びと新たな発見への期待」ということができるだろう。

発見とは、技、つまり技要素、それに自分の体や精神、自然や宇宙など万有事象の発見である。これらの発見は、合気道を修行しなければ恐らくできなかったと思うし、さらなる修行を通してまだまだ発見があるものと期待しているから、これまで修行が続いたし、まだまだ修行を続けたいと思うのだろう。

合気道は、通常とは異なる次元で練磨していくので、通常では得られない発見がある。例えば、磁石でもないのに相手の手や体がくっついてしまうことである。

合気道は引力の養成といわれるから、合気道を修行すればくっついてしまうのは当然なわけだが、合気道を知らなければ理解が難しいだろう。合気道は修行していても、それまでできなかった「くっつくこと」ができるようになってくると、今迄の日常生活やそれまでの稽古での感覚とは違った「異質の感覚」を持つことになる。

相手は離せばいいのに、離さずに心地よさそうにくっついているのも「異質の感覚」で不思議である。また、相手がくっつくと、相手の体と心を感じるのも、「異質の感覚」と言えるものだろう。

しかし、相手にくっつけようとしても中々くっつくものでもない。くっつけるためには体ができていなければならないし、体をそのように遣わなければならない。

体の節々のカスをとり、特に、肩を貫いて、体の中心をつかって末端の手を十字に動かして遣わなければならない。これが上手くいくと、今までのように力まなくても、相手を動かせるようになるのである。はじめは力まないので物足りなさを感じるが、慣れてくるとその異質の感覚が気持よいものになり、極力、力みを避けるようになるし、他人の力みも見えて来るようになる。

合気道では、技は手で掛けるが、初心者のうちは、言葉通り手で掛けてしまうので、段々技が効かなくなってくる。この問題を解決する道は二つある。

一つは、力をもっと入れること。もう一つは、手よりもっと強いものを遣うことである。もし力をもっとつけて、その力でやるとすると、前と同質の力で、ただ量が違うだけだから、異質の感覚はない。

しかし、手よりもっと強いものを遣うと、異質の感覚をもつことになる。そして、この異質の感覚をもったとき、「やった」と大きい喜びを得ることができるのである。例えば、諸手取りを体幹の力で出来た時、二教小手回しを肩や胸の力で決めた時などは、異質の力を遣ったという感覚になる。ただし、それに慣れてくれば、もはや異質の感覚ではなくなる。異質の感覚は当初だけのようである。

軸足で地を踏むと体の反対側が舞い上がる感覚は、通常感じられない「異質の感覚」といえよう。この感覚に従って体を遣わなければ技は上手く掛からないようなので、これを異質と感じている内はまだまだで、これが通常の感覚にならなければならないだろう。

自分の体と気持がうまく一致して動くと、相手の気持が引っ込んだり、あるいは引き出されたりすることになる。相手と体どうしがくっつくだけでなく、気持もくっつく感じがするのは、「異質の感」ということができよう。

また、合気道の稽古を通して「異質の感覚」を得たことで、道場の外でも異質の感覚を得ることができるようになる。例えば、美術館や展覧会で能面や仏像を見ると、表面的な容(かたち)以上のものが観えるようになってくるようである。

それまで感じたことのない異質の感覚の例をいくつが挙げてみたが、これからもさらなる「異質の感覚」が得られるものと、今後の稽古に期待しているところである。

合気道の技要素は宇宙の法則であり、無限にあるはずだからである。