【第257回】 理合の稽古

合気道の稽古を続けていても、やはり年は取っていく。稽古をしていると、時々年を取っているなと思う。しかし、年を取ることをネガティブに思っているだけではない。年を取ることで、若かった頃には分からなかったことが分かり、できなかったことができるようになるものだ。年を取ってよかったと思うと同時に、もっと年を取った時の更なる変化や躍進に期待する気持も持つようになる。早く80歳、90歳になりたいとも、思うものである。

年を取ったおかげで、若い頃に一生懸命に稽古したものの、何も分かっていなかったということが、分かるようになってくる。特に、若者が一生懸命に稽古をしているのを見ると、自分の若かった頃と同じようにやっていると思うし、これから先もまだまだ大変なんだから頑張れよと、応援したくなる。

年を取ってきたら、稽古の仕方は若い時とは変えていかなければならない。そうでないと、体を壊すか、稽古を中断せざるを得なくなるだろう。年を取って来た高齢者の稽古で大事なことは、これから先、少しでも長く稽古を続けることであろう。従って、稽古が中断するようなやり方は間違いということになる。中断しないためにはどうすればいいかを、考えてやらなければならない。

やり方はいろいろあるだろうが、一言でいえば「理合の稽古」ということになるだろう。

合気道の技を練磨するにあたっては、理に合った体遣いや動きで技を掛けていかなければならない。だから、理合いの稽古は、別段、高齢者の専売特許ではない。
しかし、高齢者は特に、ますますこの理に合った稽古をしなければならないことになるだろう。

若い内は多少理に合わない稽古で無理をしても、若い体力がカバーしてくれるだろう。が、高齢になってくると、一度の間違いで再起不能に陥る危険性もある。また、理に合わない稽古は長続きしないので、稽古の中断を早めることになる。

相対稽古で、理に合わない典型として、「力む」ことがある。理に合わない動き、理に合わない技遣いをするから、相手とぶつかってしまう。それで「力む」ことになる。若い時と同じように、力んで何とかしようとすると、ますます力んでしまうのである。

高齢者はここで、ぶつかったことを認識し、そのぶつかったことを真摯に受け止め、ぶつからないための問題解決をするようにすべきだろう。

人は、力まないと技をかけた気にならないし、技が効いたと思えないようで、どうしても力んでしまう性(さが)があるようだ。だが、理合いの技遣いをすれば、力む必要はなくなってくるはずである。体も楽であるから、長続きすることが出来ることになる。これは、年を取ってこないと分からないだろう。

それでは、理合の稽古とはどういう稽古かというと、宇宙の法則に則った技遣い、体遣いをすることである。若者は理合の稽古ができないで力んでしまっても、体や筋肉はできるから、先につながり、それも必要だが、高齢者にその余裕はないだろう。

高齢者は少しでも、宇宙の法則という理に合うよう、少しでもそれに近付くように稽古し、少しでも道を急がなければならない。そして、少しでも長く稽古を続けられるようしなければならない。