【第256回】 陰を陽につかう

合気道では争ってはいけないといわれているが、それはなかなか容易なことではない。合気道は相対で技の練磨をして上達していくが、受けと取りの双方が力一杯稽古すると、ちょっとしたことで争いになってしまいがちだからである。力をセーブしてやれば争いはないだろうが、本当の稽古にならないことになる。

合気道でいう争いは、いさかいの争いではなくても、もう一段深く考えると「ぶつかる」ことであろう。すると、合気道の技はぶつかってもいけないということになる。しかし、ぶつからないで技をつかうのも難しい。何故ならば、合気道の技は、まず気(持)の体当たり、体の体当たりをしなければならないし、体と気を相手との接点に当ててしっかり抑えていかなければ、相手に逃げられ、技は効かないからである。つまり、合気道の技はぶつかってぶつからないように遣わなければならないという矛盾の中にあるから、難しいのである。

合気道の技は宇宙の法則に則ったものであるから、法則に従えば争いになるわけはないはずだ。宇宙は何かを創造すべく、生成化育しており、宇宙に争いはなく、すべて愛であると教わっているからだ。

宇宙が争わない、万物が争わないためには、法則があるはずである。その宇宙の法則を形にした合気道の技にもその法則があるわけだから、技と体をその法則に則って遣わなければならないことになるだろう。

技を掛けて、相手とぶつかってしまうのは、大体の場合、技を掛ける方に問題があり、その原因をつくっているといえよう。ぶつかってしまう場合の大きな原因は、上げてはいけない手を上げ、動かしてはいけない部位を動かしてしまうことにあると言える。

合気道の技は、宇宙の法則にある陰と陽に遣うようにできていると考える。陽というのは、仕事をしている、仕事をする側、陰は仕事をしないで次の仕事のために待機している側である。技を掛ける場合には、相手に接している手が陽、重心が掛かっている足が陽ということになる。

例えば、正面打ち入り身投げの場合、正面打ちで打って相手の手に接するのが陽の手であり、そしてその下の足が陽である。次に入り身して転換するわけだが、この陽の手を更に陽に遣って入り身しようとすると、相手の手を押したり、弾いたりすることになるので、相手を不愉快とし、争いのもとをつくることになる。陽をまた陽で遣えば、陽陽となってしまい、宇宙の陰陽、陽陰の規則に反することになるから争いになるのである。

陽で働いてもらったら、今度は陰で待機してらわなければならない。そして、陰で待機していた側の手を陽で働いてもらうのである。陰で力を十分蓄えているので、入り身もスムーズにできるし、同時に相手の脇腹に当て身を入れることもできる。
また転換すると、自然に相手を自分の中に取り込むこともできることになる。

この陰から陽に変わった手はまた陰で待機して頂いて、陽から陰にかわって待機して頂いている手を陽につかって、相手の手を切り下ろし、と陰陽に遣っていくのである。手を陰陽で遣わなければならないということを、故有川師範は、よく「汽車ポッポ」の手で示されておられた。

また、足を陰陽につかうのも大事である。争いが目立つ技として二教裏(小手回し)がある。これも陽を陽でつかうことに争いの原因があると言える。つまり、前の陽の足をさらに力を込めて陽につかうのでぶつかってしまうから、技にならないのである。陰で控えている後ろ足を陽につかわなければ、うまくいかない。

足も陰陽につかっていかなければならないのだが、人はどうしても手も足も陽陽でつかいたがるようである。足を陰陽につかうためには、足は「歩くように」右と左を交互につかわなければならない。

陰には、エネルギーが溜まっている。陽はエネルギーを遣いきっているはずなので、さらなる働きは難しいのである。四季のなかに冬があるのは、エネルギーを蓄える時期なのだろう。寒々とした空の下に立っている桜の並木の木は、花も葉もない裸状であるが、春や夏の華やかな時期よりも、がっしり、どっしりとしていて、春のためのエネルギーを蓄えているように見える。

陽をそのままでまた陽で遣うのではなく、陰を陽へと遣うように心掛けるのである。この陰陽が技を通して身に着けば、宇宙の法則が身につくわけだから、宇宙を少しは感じられるようになるのではないかと考えている。