【第256回】精神と肉体が一つになる

バランスが崩れたものは美しくないし、本当の力を発することもできないし、多過ぎるものと欠けたものがせめぎ合い争いを誘発する。

世界は依然として争いが絶えない。たかだか数百万年の人類の歴史では、争いを地上からなくすのは難しいのだろう。国や民族や宗教などの争いには関係ないから、自分は争いなどしていないと思うかもしれないが、社会や家族との争いは多かれ少なかれ誰でもやっていることだろう。

合気道の稽古でも、争うことがないということはないだろう。人は、まだまだ争いの世界から抜けてないといえる。

開祖は「世界が依然として争い憎しみ合っているのは、物質科学と精神科学とが調和していないからだ」といわれている。つまり、世界がいまだに物にこだわっており、そこに精神が伴っていないというアンバランスから、争いや憎しみがあるというのである。それだけの精神を持ち合わせていない金持ちが、あり余るお金をさらに増やそうと、他人の迷惑も顧みずマネーロンダリー、利殖、投機などで金集めをますますエスカレートさせている姿などはその典型といえよう。

技を練磨していく合気道の稽古でも、世間と同じように、体力や腕力に頼ってしまう物質科学でやってしまいがちだ。もちろん、それは体力、腕力のせいではない。体力も腕力も技を掛けるのに必要であるし、あればあるほどいい。一般的に体力や腕力で技を掛けるのはよくないといわれるが、体力や腕力が悪いのではなく、悪いのは精神との調和が欠けていることである。つまり、遣う体力や腕力に魂が十分に入っていないことにある。魂とは、精神、心、気持、霊ということだろう。因みに、魄とは、肉体、物質であり、体力や腕力も魄である。

技の稽古で争うとは、相手が倒れない場合などに、なんとか倒そうと力づくでやるのだが、相手がさらに頑張れば、取っ組み合いの争いになる。
しかし、取っ組み合いの争いだけが争いではない。相手の手や体をくっつけないで弾いてしまうのも、ミクロの世界ではあるが、争いといえるだろう。

それでは、争わないために魄をどうすればよいのかということになるが、それを開祖は「魄と魂とが一つにならなければならない」といわれている。つまり、りっぱな肉体(魄)ができたら、それに魂を入れていくのである。

そして、魂によって肉体が動くようにしていくのである。
技を掛ける際も、まず魂(精神、気持)を働かせ、それに従って体が動くようにする。魂は緩急、強弱、自由自在であるはずなので、この魂に従うように肉体を鍛える。これによって、魂(精神)が肉体を育てることになり、そして肉体が精神を守ることにもなる。

これが合気道で、精神(魂)と肉体(魄)がひとつになるということのようである。開祖は「霊は肉体を育て上げなければなりません。体はまた精神に従って、すべて精神によって動き、精神にまかせてゆかなければなりません。精神を守るための肉体となってはじめて道が成り立つ」(「武産合気」)といわれている。

参考文献   「武産合気」