【第255回】 いい顔

人がどんな人で、今、どんな気持にあるのか等を知ることができるのは、その人の顔である。顔はその人の性格と気持の状況を表情に表す。それ故、顔を見れば、その人がどんな人なのか、また、今、どんな気持なのかが大体わかるものである。もちろん顔から間違った判断をする場合もありうる。有能な詐欺師などは、人にその判断を間違わせるために、顔の表情を創る才能をもっている。

世の中にはいい顔をしている人がいる。見ていて気持がいいものである。いい顔をしているということは、今に満足していることであり、生きていることに喜びをもっている現れだからであろう。

本当にいい顔をしているなと思えるのは、幼児や児童などの子供と後期高齢者である老人に多い。まだ社会の汚れに染まっていない無邪気な幼児と、100歳近くまで何かを一生懸命にやってきて、世俗の欲がなくなってきた高齢者に、すばらしい顔を多く見る。

幼児は、今を楽しんでいて幸せだという気持が、顔いっぱいに広がっていて、輝くようないい顔をしている。

また、何かをやり遂げた老人も、自分の人生をやるだけやったとか、やっているという、自分の人生に満足しているいい顔である。

最近、街を歩いても、テレビの画面を見ていても、いい顔をしている人が少ないように思える。深刻に何かを心配したり、悩んだり、いらいらしたり、怒ったりと、見ていてあまり気持のよくない顔が多くなっているようで、生きていること、生まれてきたことに喜びを持ててないようで残念である。

いい顔とは、自分のやっていることや、やってきたことに満足している、生きていて楽しい、生まれて来てよかった等という表現だと考える。だから、不満の顔、暗い顔などしているということは、今やっていること、やってきたことに満足しない、生きていること、生まれてきたことに喜びや感謝をしていないということになる。

食事をしている時などにいい顔でないということは、食事がまずいとか、食事に不満ということになる。毎日、暗い顔、深刻な顔をしているということは、生きることに満足していないということになるだろう。

テレビでオーケストラの演奏会を見ていても、演奏している人達に明るく楽しそうないい顔を見ることが少ないようである。楽しい、または人を楽しませる音楽を演奏しているのに、いい顔で演奏しなければ、演奏を楽しんでいないことになるし、聞いている人まで楽しくなくなってしまうだろう。

合気道の修行、稽古も厳しいことがあるかも知れないが、好きでやっているはずだろうから、いい顔でやりたいものである。稽古ができることに感謝し、合気之道を精進しながら生きていけることに喜びを感じているはずだから、暗く陰気な顔など似合わない。

もし稽古をしていていい顔になれないとしたら、稽古を楽しんでいないことになる。それにはいろいろ理由があるだろうが、例えば、まだ他人との戦いの稽古をしていて、自分との戦いをしていないからかもしれない。

身構えたり鎧で身をかためたりせず、リラックスした明るい気分、そしていい顔で、自分の声に耳を傾ければ、上達のための貴重な情報が聞こえてくるはずである。

いい顔は、人に生きる喜びを与え、そして生きる活力や推進エネルギーを分けてくれるものだろう。我々高齢者は、子供や若者に将来の夢が持てるようにしてあげなければならないだろう。それには我々がいい顔をするようにならなければならない。

そのためにも、我々は合気道を修行しているわけだから、修行を通して少しでもいい顔ができるようにしていかなければならないと思う。修行を終わる時がいつかはくるが、そのときに自分が満足できるような、本当にいい顔になっていたいものである。