【第254回】魂(こん)が魄(はく)のうえに

合気道の精進は、技の練磨を通していく。はじめは容易であるが、後からはどんどん難しくなってくる。少し強く抑えられたりすると、技がかからなくなる。それまでは相手は素直に受身を取ってくれたものが、ある程度年数を重ねて稽古をしてくると、相手もそれ相応に対処するようになるので、技が思うように掛からなくなってくるのである。

この難しさを乗り越えていくためには、自己流でがむしゃらにやっても、問題を解決することはできない。筋トレをやってパワーをつけるだけでは駄目なのである。その解決法は、開祖が示唆されている。

技がかからない理由は沢山あるが、今回は魂魄を視点にして、技がどうしてかからないのか、又かかりにくいのか、どうすればうまく掛かるようになるのかを、開祖の遺訓「魂が魄のうえになる」を解釈しながら考えて見たいと思う。

技をうまく遣うために、初めは合気道の体をつくらなければならない。体のカスを取って柔軟で強靱な肉体をつくり、力をつけていくわけである。合気道は力が要らないなどという迷信に惑わされないで、肉体(魄)の鍛錬をすべきであろう。ある程度の力がなければ、よい技を遣うことはできないし、次の段階にも進めない。開祖も、「肉体すなわち魄がなければ魂が座らぬし、人のつとめが出来ない。」と言われている。(「武産合気」)まずは、体(魄)を鍛えることである。

体をつくることは大事だが、体の遣い方も大事である。初心者が技をかけると、手をむやみに振り回す傾向にあるものだ。手を振り回すということは、まず自分の気持や意志が、手とその動きに入ってないということであり、次に手の動きに息と気持が合ってないということである。さらに、手先と腰腹が結んでおらず、腰腹を遣って手を動かさなければならないのに、手を動かしているということでもあろう。

この時期は、まず体(魄)が動いてしまい、その後に気持(魂)と息が体についてくる。つまり、魄が主体となり、魄が魂の上にある時期ということになろう。このような時期はパワーの稽古であるので、相手と争ったり、相手に怪我をさせる危険性が大きい。このような魄の稽古も大事であるが、いつまでも魄の稽古をしているわけにはいかず、次の段階に進まなければならない。

体がある程度できて、手足もしっかりしてきたなら、今度は体をいかに生かして遣うかということになる。そのためには、気持や意志や心や魂に活躍してもらわなければならない。特に、手の遣い方に注意するのがよいだろう。つまり、末端にある手と体の中心にある腰腹を結び、そして技を遣う手先に気持をつぎ込み、息に合わせて腰腹を操作して、技を掛けていくのである。

相手と接している手に、十分気持を入れていくのである。初めのうちはその部位を見て、気持を入れるのもいいが、その接点を見ないで、腰腹から気持が出るようになればよい。

そのためには、自分の動きが意識できなければならないので、初めはゆっくり動くべきである。しかし、ゆっくり動くのも容易ではないものだ。よほど注意しないと、以前のようにばらばらでめちゃくちゃな動きになってしまう。意識を入れてゆっくりやるためには、息遣いが大事である。いわゆる生産び(いくむすび)の呼吸である。

この段階で、体(魄)に気持(魂)が満ちて、体と気持は一緒に動くことになる。気持(魂)と体(魄)の調和がとれて、魂魄同等ということになるだろう。

魂と魄が同等の段階では、がっしりした動きの稽古はできるが、勝速日等と言われる電光石火の早技や、摩訶不思議な動きの技は難しい。開祖も常々いわれていたが、合気の技は摩訶不思議にならなければならないのである。

この摩訶不思議な技が遣えるためには、魂が魄の上にくるようにならなければならないだろう。まず気持、心(魂)が動き、それに体(魄)がついてくるのである。言ってみれば、自由自在に進めるレーザー光線に従って、弾丸のように体がついていくようなものである。開祖の言葉によれば、「魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。魄が下になり、魂が上、表になる。」ということである。

つまり、体力やパワー中心の魄の世界を否定するのではなく、それを土台にして、心、精神、気持の魂の世界にふりかえる、つまりチェンジするということである。

「魂が上、表になる」のが最終的な目標であるが、すぐにはできないだろう。何事にも順序がある。やるべきことをひとつひとつ片づけていかなければならない。まずは、魂を迎える魄を鍛え、次に気(持ち)と息を入れて体を遣い、調和の取れた魂魄をつくることが肝要だろう。

参考文献 「武産合気」