【第244回】 高齢になればこそ

合気道をやっているせいか、世の中のことがだんだん見えてくるようになる。その一つに、ものごとには一面しかないものはなく、必ず両面があり、それが合わさっている、ということがある。ただ、見るのがその片面しか見ていないだけである。よい面もあれば悪い面もあり、すべてに一長一短があるはずである。

若者にもよい面があるし、悪い面とは言わないが、不利な面、ネガティブな面もある。そして、高齢者にも両面がある。若者のうちしか出来ないようなこともあれば、高齢にならないと難しいこともある。

若いうちは、他との競争や戦いに一生懸命になるものなので、パワーや知識が重要になるものだ。これは、人もそうだが、戦いや競争にある社会や国にも当てはまり、経済・ビジネスや科学の力が大きいことになる。この若者パワーが経済や社会を発展させ、物質文明の中核になる。

年を取ってくると、競争や争いより協調、パワー出力より吸引力、知識より知恵、経済・ビジネスより絵や音楽などの芸術や感性、ものよりこころ等に関心が移っていくようである。高齢者や年配者は精神文明の担い手であるといえるだろう。

また、若いうちは他人であれモノであれ、自分と対比して見るが、年を取ってくると、対比したり競うのではなく、自分がその中に没入したり、くっついてしまって一体化するようになってくる。例えば、若者のように自然と対立するのではなく、自然や大自然と一体化したいと思うようになってくる。年を取ってくれば、草花、動物、自然、神や仏に関心を持つようになってくる。

合気道の稽古も、年を取ってくると変わってくる。若いうちは、相手を弾き飛ばしたり、強引に押さえつけたりするものだ。だが、年を取ってくるとそれができなくなってくるからかもしれないが、それだけでは満足できなくなり、相手をくっつけて、相手と一体化して相手を制しないと満足できなくなる。

年を取るということは、自分の先が見えてくるということでもある。残り少ない時間であり、いつ突然お迎えがくるかも知れないわけだから、お迎えがいつ来ても満足していけるように、後悔しないように稽古をしていかなければならないだろう。これも年を取らないと実感できないことだろう。人と争ったり、パワーをあてにするような稽古ではなく、無駄のない稽古をするようになるだろう。高齢者万歳である。