【第243回】 年だから駄目だとはいわない

開祖をはじめ、武道の名人、達人などといわれる人たちは、年を取っても活躍していたし、若い時に比べて晩年の方が、技遣いも人格も優れていたものと思う。開祖ご自身も晩年に、若かった時より今の方が強いと言われていた。しかし、自分が若かったころは、それを半分しか理解できなかった。

若い内はどうしても、体力メインで稽古をするもので、技ということを余り考えない。また、相手を投げたり抑えれば、技が効いたと勘違いしてしまい、体力と馬力で稽古していたものだ。

しかし、このような力の稽古は40,50歳までは出来るだろうが、60歳を超えてくると体力や馬力が落ちて来て、それまでのように体力と馬力ではできなくなってくるものだ。特に、相手が自分より体力があったり体が大きかったりすると、それまでのように投げたり、抑えるのが難しくなってくる。若い時も、そういう相手に技が掛からないこともあったはずだが、あまり気にもしなかった。ところが、年を取ってくると、うまく技が掛からないのは年のせいではないかと考えるようになりがちである。

実は、ここが上達するか、駄目になるかの分岐点となるようである。なぜなら、ここで、力を凌駕するものは技である、ということに気がついて、技の稽古に入るかどうかの瀬戸際になるからだ。しかし、簡単には気がつかないことのようである。やはり指導者が導いてくれなければ、気がつかないもので、どのように今までの体力馬力の稽古から技の稽古に変えていけばよいのか分からないからである。

私の場合は、有難いことにいい師範に導いて頂くことができた。師範の言葉は今でも耳に残っている。諸手取りの呼吸法の稽古のときだった。いつものように相手に体当たりして相手を倒し、嬉々としていたときに、そばに来られて、「そんな稽古をしていると呼吸力はつかないぞ」と言われたのである。その時は、ご指導のお礼をいったが、相手がふっ飛ぶんだからよいではないかと思い、不遜にもちょっと不服だったことを覚えている。

しかし、先生の言葉が頭から離れず、数日、考えているうちに、確かに今までの馬力の稽古では、合気道の本当の力であると思われる呼吸力はつかないだろうと思うようになった。それを契機にして、稽古方法が変わった。

特にその師範の稽古では、できるだけ師範の真似をするようにした。しかし、時には師範の真似をしているつもりで稽古をしている私のところに来られて、「そんなことはやっていないぞ」とボソッと言われたりした。後で考えると、師範は稽古人の技を常に見ていて下さったわけである。

稽古の後、よく食事をご一緒させて頂いたが、いつも今日の稽古をどうだったかと聞かれた。あるとき、(実はトンチカンな答えだったのだが)今日の相手は大きな外人で思うように技がかからなかったと答えたところ、師範は、「そんなこと(大きな相手には技が掛からない)を言っているようでは駄目だな」といわれたのである。今だから分かるが、その時はそれは難しいと思っていたし、合気道の技は相手の大きさに関係ないということに半信半疑であった。

上記のような師範のお陰で、技というのは体力や腕力には関係なく遣えるものでなければならないと思うようになった。また、そうすると、年齢とも関係ないし、年を取っても遣えるということになるはずであるとも考えるようになった。

だから、年をとったからできないとか、駄目だとかいうのは、まだまだ稽古不足ということになる。相手によりできないときもあるだろうが、年をとるにしたがって技がより完成に近づくように稽古していけば、さらに大きい相手、重い相手、体力や腕力の相手にも技が効くようになるだろう。

「年だから駄目だ」などとは言わず、「若かったときより今の方が強い」と言いたいものである。