【第237回】 手と力

合気道の技は手で掛けるのだが、手で技を掛けるということをじっくり考えてみる必要があると思う。

手というのは、人の身体の中で最も頻繁に遣う部位であり、最も動きやすく、あまり意識しなくとも動いてくれる部位であるということができよう。だから人は、手は自分の思うように働いてくれると思い、あまり意識しないで使っているのではないだろうか。

しかし、日常生活においては、手を無意識で使っていてもあまり支障はないだろうが、技や力が要る武道ではそうはいかない。手とは何か、手の機能を知り、さらに手がよりよく機能するための意識した修練が必要であると考えている。

日常生活では手を指先から肩までとし、それもあまり意識せずに使っているはずである。現代社会では力の要る仕事は便利な道具や機械がやってくれるので、指先から肩までの手で間に合うが、それでも年を取ってくると、長年の肩への負担から40肩や50肩になってくる。

この肩までの手で、合気道の技を遣っても技はうまく決まらない。力が出ないだけでなく、相手を弾いてしまい、相手と結ぶのが難しくなるのである。武道の手は、手先から肩よりもっと先の胸鎖関節までであるが、それを意識し、そしてそれを遣うようにしなければならない。この手が遣えるようになれば、肩が貫けて、肩甲骨が遣え、また手が腰腹と連動し、腰腹の力を手先に伝えることができるようになる。

また、手は手首と肘、肘と肩、肩と胸鎖関節のところで十字に動くようにできている。ここが十字に機能するように構成されているために、手は自由に動けるのである。

しかし、十字に動くべく関節がさび付いていたり、ついている筋肉が硬直していたり脆弱な場合は、十分機能しないので、関節のさびを取り、筋肉を柔軟強靱にしていかなければならない。このさび取りをするために、とりわけ一教から三教までをしっかり稽古しなければならない。この一教から三教の技を、開祖はかす取りの技ともいわれているのである。

また、手が十字に動くようにできていることにより、技を掛ける際、その関節部が折れ曲がってしまいがちである。手が折れてしまえば、力はそこで途切れてしまい、手先まで伝わらないことになるので、大きな力は出せないことになる。手が十字でなく、関節をもたない一本の棒のような手なら、折れることはないわけだが、手が一本の棒のようにできていたとすれば、手を十字に、そして今のように自由に遣えないわけだから、問題はもっと大きくなるだろう。十字でできている手に感謝し、その十字のために起きやすい折れ曲がりを克服するしかないだろう。

手は関節のところで十字になっているので折れやすいが、折れないように機能するようにできている。つまり、手を螺旋に遣うことである。直線的に遣うのではなく、螺旋で遣っていけば、一本の長い手となり折れにくくなる。自分の腕を見ると分かるように、手(腕)は螺旋に遣うように筋肉も螺旋についているのである。バウムクーヘン(ドイツのケーキ)のような輪状にはついていない。

合気道では、腰腹の力を手先に伝えて遣うだけでは、まだ不十分である。自分の体重を技に遣わなければならないのである。そのためには、足をうまく遣わなければならないことになる。足が居ついて止まっていれば、動くのは手であるから、手さばきになってしまい、大した力は出せない。左右の足への規則的重心移動により、体重を足から腰腹、背中、肩甲骨、腕、そして手先に伝えるのである。そうすれば、相手がその手を持てば、目で見ている手ではなく、こちらの身体を持ったことになるわけである。

自分の体重が技に遣えるようになれば、地からの抗力を得るようになるはずである。恐らく次は地の力が手先に伝わり、自分の地からの力を遣えるようになるのではないだろうか。それは開祖がいわれている、天地の力、潮の干満の力(赤玉、白玉)といわれる力ではないだろうか。まだまだ先がある。