【第235回】 後進に見せる背中をもつ

高齢者の定義は難しいが、ここでは定年を迎え、年金をもらっている人ということにする。すると、高齢者とは、これまでの社会のしがらみから自由になった人のことである。学校、会社、ビジネス業界などの社会との関係がなくなり、人間としての個人の生き方がしやすくなるわけである。

これまでは社会の構成員の一人として、または組織の歯車として活躍してきて、社会や組織の機能効率のため、時として自分の希望に反することに従事したり、無能な上司のもとで働いたり、自分の意志とは関係なく偶然と運により自分が動かされ、自分の思い通りにはやってこれなかったはずである。

高齢者になれば、これから自分をどうするか、どうなるかは、完全に自分の責任ということになるだろう。何もしないのも含め、やりたいことを自分の自由に出来るようになるはずだからである。

少し前までは、日本では人生50年などと言われていたが、今では100歳以上が3,4万人もいるので、これからは人生100年と考えなければならないということになるだろう。もちろん、みんながみんな100歳になることはないだろうが、それを考えないと本人だけでなく国も社会も混乱したり、国や社会の損出になるはずである。

人は生産的に生きるようにできているように思える。生産的というのは、国や社会や家族のために貢献することである。合気道的に言えば、宇宙生成化育のお役に立つことである。人は宇宙生成化育のため、地上楽園をつくるために生まれ、生きているというが、そうかもしれない。なぜなら、生産的に生きている人とそうでない人の顔つきや満足度を見ると、雲泥の差があることからもわかるような気がする。

物事には相反する二面がある。高齢者は時間や社会のしがらみから自由になるが、今度は生産的に生きるのは難しくなるのかもしれない。もちろん孫の面倒をみるというのも生産的であるから、それに満足できればそれでもいい。しかし、できれば自分も満足し、そして他、つまり人類や地球や宇宙も満足するような生産的な生き方ができればよいのではないだろうか。

若者に比べて、高齢者は長年の経験とそこから得た知識や知恵や度胸があるはずである。若者はこれからそれらを獲得していかなければならないのだから、不安や焦りがあるだろう。だから、高齢者がそれを若者に示すことができれば、若者はそういうものがあることや、目指すべく目標に気がついて、頑張ることができるようになるはずである。それを、昔のひとは「背中を見せる」といったのだろう。

合気道の稽古でも、古参の高齢者がわざわざお節介に若者に教える必要はない。(もちろん、若者の方から教えを請いにくれば教えてあげなければならない)自分自身が自分自身の稽古をしていることが、若者や後進への一番の教えになるはずである。彼らは古参の高齢者の背中を見ているのだ。

合気道の稽古で、後進に見せる背中をもつようになったら、道場以外の世界でもそうなるようにしたいものである。今の世の中で、特に若者が荒れているのは、高齢者にも大きな責任があると考える。高齢者が彼らに見せる背中をもっていないからだと思うからである。彼らは、自分が高齢者になってもこんなものかと考えてしまい、苦労して生きるという意欲を失うのではないだろうか。また、見せる背中をもっていない高齢者を非生産的であると思うだろうし、その非生産的なものに我々はなぜ税金を払うなどして面倒を見なければならないかなどと、迷うのではないだろうか。

若い内は自分のため、家族のために働き、高齢者になったら社会のため、後進のために働きたいものである。そのためには、後進に見せる背中をもちたいものである。