【第232回】 かたち

合気道には「かたち」がないと開祖はいわれているが、合気道は技を練磨して精進するものである。技と言うのは、一教とか四方投げなどであるから、合気道の技には「かたち」があるといえる。

合気道に「かたち」がないということは、技の鍛錬を通して技を覚えることが合気道の最終目的ではなく、目標とするものは「かたち」のないものであるということだと考える。

この「かたち」のない最終目標にたどり着くには、合気道の「かたち」ある技を練磨するしかないだろう。そのため開祖は、宇宙法則、宇宙の条理に則った技をつくられたのである。つまり、合気道の技を会得していけば、宇宙の条理が身についていくことになり、宇宙との一体化、我即宇宙になるということであろう。従って、合気道は「かたち」を通して練磨していくしかないだろう。

合気道の技は、宇宙の法則に則っている技であるから、宇宙の法則に反するやり方でやっては意味がない。しかし、どれが宇宙の法則に則っていて、どれが則っていないのか、どうすれば宇宙の法則に則ったやり方になるのかが問題になろう。技をただなぞっているだけでは本当の技にはならない。技を練磨するとは、技をなぞることの繰り返しではない。

技の練磨ということは、いつも言っているように、技の「かたち」を構成する技要因を見つけ、それを身につけていくことだと考える。例えば、十字という技要因を手や足の動きの中に組み入れていくのである。

技要因の多くは「かたち」の中にあり、「かたち」から発見し、「かたち」で再現していけるものである。ある技要因、例えば、十字で二教の技を掛ける場合、自分の手が横、縦と動いているか、相手の手と十字になっているかなど、「かたち」で見ることができる。「かたち」があるから発見できるし、修正できるのである。

従って、技の鍛錬には「かたち」が重要になる。「かたち」を把握することが大事ということになるはずだ。

ギリシャの哲学者たちの時代から、「かたち」は感性と知性で把握できるといわれている。だから、技の「かたち」がよいかどうかは、まず感性で把握できることになる。自分で、無駄なく、美しいと思えば、よい「かたち」ということになる。どこか引っかかったり、流れが不自然になるのは、「かたち」がよくないはずである。これが感性での把握ということだろう。

また、今までの経験や知識から、その技のやり方(「かたち」)が理に合っているかどうかを把握することもできる。陰陽という知識から、右、左、左右交互に規則的に動いていないのは、「かたち」が崩れていることになるわけで、これが知性での把握ということになるだろう。

感性と知性により「かたち」をつくり上げていかなければならない。だから、知性と感性を高めていかなければならないことになる。「かたち」は合気道とは異分野からも学ぶことができるから、視野を広くして、そのチャンスを逃さないように、注意しなければならないだろう。

そして、その「かたち」から本質を引き出していくのである。例えば、宇宙の営み、宇宙の条理の一片などである。

「かたち」は重要だが、最終的な目標ではない。これが、開祖の言われる「かたち」がないものかも知れない。「かたち」は必要条件であるが、十分条件ではない、ということかもしれないが、MUSTであると考える。

参考文献  『この国のかたち』 司馬遼太郎