【第231回】 知らないことを知るようになる

若いうちはそうだし、また物事を習い始めたときもそうだが、何でもちょっとかじると分かったような気になるものだ。
合気道でも技の型をある程度なぞれるようになると、合気道は出来たと思ってしまうものだ。
また、若者もそうだし、初心者もそうだが、何かができたことや新たな発見に喜びを感じるので、つねに何か新しいものを得ようとするものだ。
そして、こんなことを知っていると誇らしくなるものだ。裏を返せば、まだ知らないということであろう。
だから知らないことは、若者の特権であり、恥ずかしいことではないわけである。

高齢者は長く生きているわけなので、通常は若者より多くのことを知っているだろう。
若者が知っていて、こちらが知らなければ恥ずかしいだろう。勿論、コンピュータや携帯などは、若者に敵わないわけだが、ここでは人として知っておかなければならないことや知っておいた方がいいことを言っている。つまり、人間としての生きる知識、知恵ということである。

年を取って来て、少しずつ知識が溜まり、知恵がついてくると、本を読んだり、映画やテレビを見ても、自分は年は取って来ているが、知らないことがまだまだ沢山あるということを思い知らされるようになる。例えば、自分の国、日本のこともほとんど知らない。また自分自身のことも知らない。自分の体、心など何も分かっていないのである。地球や宇宙のことも自分自身同様、何も知らないと言った方がいいだろう。

若い内は、知らないのが当然と思っていたためか、知らないことをあまり気にしなかったが、年を取るに従い、まだまだ何も知らないということを知ってくるようになる。本を読んでいても、よくもこんなことを知らずに、偉そうに生活したり、働いたり、また稽古をしてきたものだと恥ずかしくなる。

合気道の稽古も、稽古をやればやるほど、自分が合気道をまだまだ知らないことが沢山あることが分かってくる。こんなことも知らずに、長年にわたってよく稽古をしてきたと恥ずかしくなる。それも稽古もやればやるほど知らないということを知るようになるようである。

まだまだ知らなければならないことは沢山ある。すべてのことを知ることは絶対に出来ないだろうが、少しでも多く知りたいものである。完成のない合気道の修行と同じようにこれもロマンであろう。

この知らないということを知り、まだまだ知らなければならないという高齢者の態度こそ、若者たちへ生きる活力を与えると考える。これも高齢者の次世代の若者に対する使命であると考える。