【第231回】 相手を見ない

合気道は通常相対稽古で、技の練磨をして精進していく。相手がいろいろな取りで技を掛けて来るのを、捌く稽古をするのである。手刀で打ってきたり、手で掴んできたり、または木剣や短刀で打ってきたり突いてくるのを技を遣って捌くのである。

初心者は必ずといっていいほど、まず相手の目を見たり、相手の手や武器を見てしまう。これは本能として仕方がないことだろし、その方が自然だろう。もし相手を見なっかったり、相手の手や武器を見なければもっと悪い結果になることは間違いない。

開祖や名人・達人は「相手が木刀を持ってくる。相手を絶対に見ない。合気は相手の目を見たり、手を見たりしてはいかん。」と言われるが、それを目指して修練しなさいということで、技も体、それに心も出来ていないのがすぐにできるはずはない。ものには順序があり、それをひとつひとつ会得しながら相手を見なくとも自由に技が遣えるようにしていくしかないだろう。

ある程度修練を積んでくれば、相手を見ないでも、また目をつぶってでも技を遣うことができるようになってくる。例えば、相手が手を掴んでくればその手を通して相手の動きや気持ちが分かるようになるので、相手を見なくとも相手の状況がわかる。そのためには自分の手と腹(腰や体幹)がしっかり結んでいなければならない。つながっていなければ、相手を体で感じることができないので、相手を見るほかないだろう。

しかし、これは相手と接しないと分からないわけだから、相手と対峙しているときは相手を見なければならない。折角目があるわけだから見ればいいだろう。しかし、相手の目や得物を見てはならないというのである。ここでの見てはならないということは、とらわれてはならないということだろう。見つめるのではなく、相手全体を観る、観るということより感じることだろう。開祖はこれを「法華経の念彼(ねんぴ)観音力」といわれている。

手刀で打たれようが、木剣で切られようが、稽古であるから、当たれば多少痛いかもしれないが、大したダメージはないはずだ。覚悟を決めてやれば、気持も落ち着いて動揺せず、相手を見なくとも動けるようになるだろう。少しずつ上手くなっていけばいい。完全に出来たなどと決して思わないで精進することである。剣や杖を捌くなどそう簡単にはできないはずだ。得物を素手で捌くなど、剣道や杖道をやられている方々に失礼であろう。謙虚にこつこつと相手を見ない稽古を続け、少しずつ精進するしかない。