【第230回】 多様化と独創性

社会が発達して豊かになってくると、社会も人もある方向に向かうようになるという。資本主義であろうが共産主義であろうが変わらない。経済学では資本主義でも共産主義でもどんどんと官僚主義になる。行政は官僚主義により精度が高いものになるが、人間味の少ない冷たいものになっていくようだ。そのような社会に生きる人は、意識するしないは別として、その中で上手く生きるためにその社会に合わせようとすることになる。その上、社会はどんどん忙しくなるので、自分達の生き方を考え、試行錯誤する余裕もなくなってくる。そして、社会は、司馬遼太郎の言葉を借りれば「平面的な統一性」「文化の均一性」「価値意識の単純化」に向かっていくことになる。(『この国のかたち』司馬遼太郎)

今も、ますます多くの人達が「平面的な統一性」「文化の均一性」「価値意識の単純化」に向かっていっているようだ。例えば、経済的に豊かにならなければならない、そのためにはいい会社に勤めなければならない、またそのためには有名校の合格率の高い学校に行かなければならない、そのためにはいい塾、いい幼稚園に通わなければならない、という具合だ。これでは、自分の好きなことや自分の隠れているだろう才能を見つけて伸ばすこともできないだろう。

それゆえ、社会も人も薄っぺらい、自分だけよければいいというような均一の文化がになって、損得とか、自分にプラスかマイナスか、というデジタル化の価値意識しか持てなくなるだろう。

みんな考えが同じ、生き方も同じ社会など、面白くもおかしくもない。人がひとりひとり違うから、おもしろい。損得に関係なく、自分の価値観や人生観で生きている人の話や行動は、面白いし感動するので、自分の生きる糧となる。

そういう意味で、合気道は素晴らしい。金にも名誉にもならないことを、こつこつと地味にやっていくのである。それも5年や10年ではない。40年、50年やっても、終わりがないのである。これだけの時間と労力をかけて金儲けをしようと思えば、相当なものになるはずだ。合気道の門外漢からすれば、ご苦労なことだと思うだろう。

金にも名誉にもならず、社会的な評価もないであろうような修行をすることによって、実はそれ以上のものを合気道は我々に与えているのである。

それは「多様化」と「独創性」であろう。開祖を例に挙げるまでもなく、その直弟子の先生方を見ても、それは分かるだろう。開祖に教わった直弟子は、同じ合気道とは思えないほど、技も考え方も教え方も多様であり、独創的である。一人として同じ合気道ではない。

また合気道を探求していけば、合気道が上達するだけでなく、他の価値あるものも見えて来るし、それを認めて身につけようとするような社会のしがらみを離れた柔軟なこころが出来て来るようだ。

合気道だけではなく、なんでも一つのことを追及していけば、自分という個性が現れ、社会や他人とは異なった多様化した独創性が出て来るようだ。

多様化や独創性のある人が増えてくれば、社会は面白くなり、活性化するはずである。そうなれば、若者も生きる張りができるだろうし、次の世代によい社会を継承しなければならないと考えるようになるのではないだろうか。