【第219回】 一隅を照らす

人はみな一生懸命に生きている。生まれた赤ん坊から、死が間近い老人まで、金持ちも貧乏人も、国が違っても、地域が違っても、一生懸命に生きようとしている。いや、人間だけではなく、動物も植物も、生きとし生けるものはすべて一生懸命に生きている。

しかし、動物や植物は一生懸命に生きているが、一生懸命に生きていることに気付いてないように、人間もそれに気が付いてないようである。競争社会にある人間は、優劣の社会でもあるから、優にある人は一生懸命やったと思えるかも知れないが、劣の人は一生懸命やったとなかなか認められない。劣の人たちだってそれなりに一生懸命やったはずである。上手くいかなかったのは、運か才能か努力が少し足りなかっただけなのだ。

世間の表舞台に出て注目を浴びる人達もいるが、そうでない人も沢山いる。世間に注目されない人達だって、一生懸命やっていないとか、いい仕事をしていないということはない。世間が知らないような仕事をしている人は多い、というよりも、それが大半であろう。この人達がいなければ、世の中はなりたたないはずである。

みんながみんな、世間に顔を出す必要はない。テレビ、インターネット、雑誌、新聞などが普及し、世の中を左右するまでの影響力を持つ時代になり、そこに顔を出すのが成功者のように思われるような世の中になってしまったようだが、そうでないとしても自分の道を一生懸命進んで行けばよい。

若い内は、人の目につくようにとか、評価されようと無理するものだが、年を取ってくれば、諦めもあるかも知れないし、やせ我慢かもしれないが、わが道を一生懸命行けばよいと思うようになる。世間に認められなくとも、無視されても、自分のやるべきこと、やりたいことを、こつこつ一生懸命やることであろう。

叡山を開いた最澄(写真)の言葉に、「一隅ヲ照ラス、コレ国宝」があるが、世間の一隅にあって不断の灯火を絶やさずにいる人々は素晴らしく、国の宝であるといっているのである。まさしく普通一般の人々はこの国宝であるし、またこの国宝を目指しているといえるのではないだろうか。

参考文献  「宇和島人について」(『司馬遼太郎が考えたこと』司馬遼太郎著)