【第215回】 魂が魄の上に

合気道は体力や腕力などの力が要らないとか、中には触れずに相手を倒すことができるものと思っている人もいるようだが、半分は正しいだろうが、半分は間違っているといえよう。開祖のように体を徹底的に練って体力や気力をつけた人なら、触れずに人を倒すことができるかもしれないが、体ができていないし、気力や呼吸力がないのに、触れずに倒すことなどできるはずがない。

稽古事はすべてそうであろうが、合気道も先ずは体を鍛えなければならない。体すなわち魄がなければ、精神すなわち魂が座さず、合気道も人の努めも果たすことができない。

しかし、合気道では、体だけを鍛えて、魄に頼り、魄だけを遣ったのでは、よい仕事はできないという。魄をつくり上げていかなければならないが、魄に堕せぬよう、魂を学び、魂の世界にふりかえらなければならないというのである。

これを開祖は、「合気は魄を排するのではなく土台として、魂の世界にふりかえるのである。」と言われている。つまり、魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。魄が下になり、魂が上、表にならなければならない、というのである。魄に堕せぬように魂の霊れぶりが大事である。これが合気の練磨方法である、という。

「魄が下になり、魂が上、表になる」が合気の練磨方法というのだから、これがどんな方法なのか考えなければならない。

相対稽古で注意深く観察してみると、まず気持ち(こころ)が起き、それに従って体は動く。そして、技を掛けるるとき、相手にはこちらの力が伝わる前に、こちらのそうしたいという気持ち(こころ)が相手に伝わっているはずである。つまり、魄(手)より魂(こころ)が先行していることになる。

正面打ちに対し、入り身で入るためには、先ず、こころのビームを発し、それに体が従うようにしないと、入れないだろう。先ず、強力なビームが発せられているから、体は一見緩慢に動いているようでも、相手に打たれずに死角に入いれるのである。相手に入り身で入れないのは、魂が働かずビームが発せられないか、弱すぎる状態で、体(魄)を動かそうとするからであろう。

まだ技の形もよく分からず、技の手順の分からない初心者は、こころ(魂)がとまって力(魄)だけでやる場合が多いが、意識して稽古し、慣れてくればこころが先行するようになるはずである。

開祖の技を、DVDやビデオフィルムで見てみると、こころが先ずレーザー光線のように発せられ、それに体の動きと相手の動きがついてくるので、魂が魄に先行し、魂に魄が導かれているのがよく分かる。これによって、相手が打ってきても、相手はレーザー光線の残像を打っているので打てないことになる。また、達人に睨まれると動けなくなったりするのも、この魂のレーザー光線のせいであろう。合気道の稽古は、身体が整ったら、今度は、魂の生成化育を図るようにしなければならないだろう。

この魂が魄に先行することが稽古で意識できたら、今度は更に強く意識してこころ(魂)を集中し、魂(意識、こころ)を練磨していけばいい。その時、手足を無暗に動かして力(魄)でやるのではなく、こころに従って動くようにすればいい。そのためには、相手を押しつけたり、弾き飛ばすような力を出すのではなく、魂と魄が相手とくっついていることがポイントである。くっついているから、つまり相手と一体化しているから、こちらのこころ(気持ち)で一緒に動けることになるのである。

これを天之浮橋に立つ、魂魄が正しく整った姿、というのだろう。魂の世界と実在の世界の両世界がひとつになるのである。十字ともいう。これが十字道であり、合気道ということになろう。ここから形のない、本格的な合気道の練磨に入れることになるのだろう。

合気道は、究極的にはすべて魂の学びといわれ、形はないといわれるが、このためには、「魄が下になり、魂が上、表になる」の合気の練磨方法をしていかなければならないことになる。