【第213回】 後世意識

小説でも学術書でもそうだが、読んでいると、これまで有名な人達以外に多くの人達が我々後世の者のために頑張ってくれたり、または後世の為にはならないことをやったりして、名を残していることに驚かされる。

今も名前が残っている昔の人たちは、後世で評価されたり無視されることを、意識していたのだろうかと興味を持つ。多分、後世を意識した人もいるだろうし、しない人もいるだろうということになろう。

後世を意識して活動した人は、恐らく後世に何かを残してくれただろうから、よく評価されるだろう。そしてそういう人達が今を創り上げたといってよいのではないだろうか。

逆に、後世を意識しないとどうなるかというと、今の自分だけを意識することになるだろう。つまり、今の自分だけが良ければよい、すなわちエゴということである。今の日本はこれがますます悪くなっているようで心配である。

汚職や贈収賄で問題を起こす政治家や役人や警察官がテレビや新聞で取り上げられるが、世の為にある者たちが、自分の為になれば他人や後世はどうでもいいというのは悲しい限りである。

司馬遼太郎の『司馬遼太郎が考えたこと』を読んで、「華夷の差(かいのさ)」という言葉が目についた。華夷の華とは中国で、夷は漢民族以外の民族だという。この「華夷の差」というのは、中国人が大事にしていることだそうだが、中国と他国の経済、文化的差で中国が上だと威張ってばかりするのではないということである。

「華夷の差」は何にあるかというと、後世意識が有るか無いかということだという。つまり、後世意識がないのは野蛮な夷(えびす)であるというのである。 中国では清朝までこの後世意識の文化があり、その例として、帝王のそばにいて、朝から晩まで帝王の言動を書きとめる「起居注」(ききょちゅう)という官職があったが、これは後世にむかって忠実に書きつけるという職で、たとえそれを帝王が見たいと言っても決して見せなかったといわれる。史実を正しく伝えて行くという後世意識をもっていたのである。

世の中を見まわして見ると、華の人もいるが、夷の人が目についてしまう。テレビや新聞には夷のニュースが多く載るからかもしれない。願わくば後世を意識する華の人が増えることを期待する。

合気道の稽古も、夷の稽古ではなく、後世を意識した華の稽古をしていきたいものである。宇宙生成化育にお役に立つような、後世に伝承でき、後世に夢や希望を与えられるような稽古をしていきたいものである。

また、道場の外のかわいらしい子供たちにも、少しでもよい世の中にしてから譲れるように、後世を意識して生きていきたいものである。