【第210回】 やるべきことをやるだけ

合気道は、大元は古いものであろうが、新しい武道といえよう。それは、開祖植芝盛平翁が創られ、いつか完成する宇宙楽園と、かつて宇宙を創造した一元(神)とが繋がった、超未来と超過去を結んだ武の道だから、これまでの武道とは異なる全く新しい武道と言えよう。

もちろん武道であるからには、攻撃に対処できる技があり、相手の攻撃を制することが出来なければいけない。この意味では他の武術や武道と違いがないといえるだろう。しかし、合気道と他の武道には大きな違いがあると思う。それは技の練磨の目的が違うことである。一般の武道での練磨の目的は、敵の攻撃を制することであり、相手に勝つことであろうが、合気道では、敵を制することが最終目的ではない。

これが初心者には分かりにくく、相手を投げたり、抑えることに一生懸命になってしまう。初心者にとっては、初めの内は相手を倒す稽古で体が出来るし、息遣いも覚えるので悪くはないが、この習慣を高段者になっても引きずりがちである。

相手を投げたり、抑えることを目的化することが何故悪いかというと、一つは、合気道で目指すべく真の目的を忘れてしまい、合気の道を進めなくなるからである。二つ目は、相手に何かをしようとするということは、相手に吸収されてしまうことであり、合気道のご法度を犯すことになるからである。合気道では、自分が中心にならなければならないのである。

合気道は相対稽古で、幾つかの技を、取り(仕手)と受けを交互にやって精進していく。初心者のうちは、力一杯投げたり抑えないと相手は倒れてくれないし、倒れないものだから、何とか倒そうと四苦八苦し、倒すことに集中するものだ。

合気道の技は、相手は倒れていなければならないが、相手を倒すのが目的ではない。相手に技を掛けるが、相手を倒すのではなく、結果として倒れるようにならなければならないということである。もちろん、それは容易ではないだろう。相手にもよるだろうから、いつでも誰にでも出来るとはかぎらないだろうが、相手が自ら倒れるようにしなければならない。

相手が自ら倒れるには、その為の必然性がなければならない。つまり、技を掛ける場合、やるべきことをやらなければならない。私が言っているところの「技要因」(これを「宇宙の法則」というと思う)を遣ってやるのである。それを少しでも多く、そして深く遣うことである。相手が頑張ろうが、反抗してこようが、関係なく自分のやるべくことをやるのである。そうすれば、こちらが倒そうとしなくても、相手が引っ掛かってきて、自分で自ら倒れるようになるのである。

合気道の技の練磨は、自分のやるべきことをやっていけばよい筈である。相手をどうにかしようとすれば、相手に吸収されることになり、よい仕事はできない。自分が宇宙の中心に立たなければ、よい仕事はできないのである。自分が宇宙の中心に立って、やるべきことをやるしかない。