【第21回】 感動を求めて

合気道を始めて、すでに45、6年が経った。物事に飽きっぽい者なのに、よく続いているものだ。これから先はなにがあるか分からないが、間違いなく肉体と精神が機能するかぎりは続けるだろう。
同期に入門した人々、先輩や後輩の多くは稽古に来なくなってしまった。いろいろな事情があるだろうが、何故来なくなったのだろうと時に考える。

合気道の稽古をしていると、今までできなかったことができるようになったり、判らなかったことが突然判ったり、考えたことが上手くできたり、発見があったりすると、感動がある。今日の稽古で感動があれば、明日もあるだろう。1年後はもっと違う感動があるだろう。この感動が稽古を続ける大きな原動力だろう。逆にいうと、稽古で感動が無くなれば、自分の合気道の発展性は止まり、稽古を続けるのがつまらなくなるだろう。

開祖が黄金体になられたような大きな感動でなくとも、転換での手の返しでこっちの方が正しいと分かったとか、体の動きと呼吸(いき)が合うようになったとか、中心をとったら相手が崩れたとか、力みをとったら相手と結んで、相手が自由についてきたとか等々から得られる感動の積み重ねが大事ではないだろうか。
稽古は、感動を得るためにするともいえるだろう。

人が評価するものは、人に感動を与えるものである。絵や音楽、お能や歌舞伎や踊り、それにスポーツでも人間がここまで出来るものかと、大きな感動を与えてくれる。これらの芸術家、芸能家、スポーツマンも毎日新たな感動を得ながら、他人にも感動を与えるべく、練習、稽古に励んでいる。合気道は自分が感動するために稽古するだけで、他人に感動を与えるためのものではない。他人を意識しての稽古とか、他人に見せようとする演武はしないようにしなければならない。合気道で他人を感動させることがあるとすれば、一生懸命やっている姿勢しかない。まわりの目を意識せず、懸命に稽古をしている姿勢だけが他人に感動を与える。これは高段者、初心者、若者、高齢者、子供、あるいは上手下手は関係ないことである。

この感動を求める稽古の姿勢は、日常の生活にも生かされなければならない。感動のない人生はつまらない。感動することは幾らでもあるはずだ。今日、感動すれば、明日も一年後、10年後にも感動できるだろう。そして、10年後、20年後が楽しみになるはずだ。そして、長生きしようと思うだろうし、できるだろう。稽古も続けられるよう、また長生きできるよう、感動を求めていこう。