【第21回】 争わない

合気道では、争ってはいけないことになっている。稽古も相手と争わないよう注意しなければならないし、勿論、勝ち負けを決める試合も無い。合気道では、争いの無い地球平和をつくるために働かなければならないと教えられている。

しかし、合気道の稽古でも日常生活でも争いをなくすのはなかなか難しい。それは人間の歴史は争いの歴史の連続であり、強くて勝ったものが今の文明を築きあげてきたため、争いの遺伝子が残っているからである。開祖は、魄の世界はできたが、そのため穢れ(けがれ)がたまったので禊をしなければならない、といわれていた。争うという穢れを、合気道の修行で禊せよということであろう。

開祖は、争ったらもう遅い。争う前に事を納めなければならないと言われていた。そのためには魂魄を鍛え、隙の無い振舞いをしなければならない。入門した頃は、人に負けないように、稽古を一生懸命するあまり、開祖の言葉も忘れたかのように、稽古相手との争いの連続であった。その上、道場で開祖や師範が技を示しているときには、稽古人は正座して見ているのだが、この人は今後ろから押さえれば押さえられるとか、この人は押さえるのがとても不可能だとか、ひそかに考えたりもした。人には格があるように思える。道場以外の人間でも、ひとかどの修行や仕事をした人にはとてもかなわないと思ったものだ。

現実には、まだまだ自分の身は自分で守らなければならないだろう。開祖はかつて、「やるのは悪いが、やられるのはもっと悪い」といわれた。やるのは罪であるが、やられるのは相手にもっと大きな罪をつくるからということのようだ。 合気道の稽古で争いが起こらないようにするには、真の武の稽古をすることである。相手を痛めようとか制しようとかの稽古ではなく、真の合気道の追及の稽古である。相手は自分の稽古台になってくれており、縁あって一緒に稽古をしてくれる人であるわけだから、敬意と感謝をもって対処しなければならないわけである。この気持ちがあれば争いは起きないし、相手も満足した稽古ができるはずだ。

「真の武(合気道は)は、いかなる場合にも絶対不敗である。すなわち、絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の"争う心"に打ち勝つことである。己に与えられた使命を成し遂げることである。」(『合気真髄』より)