【第207回】 むなしさ

人間、エネルギーが満ちている子供や青春時代には、年を取るとか老人になるなど考えることもなく、周りの高齢者に違和感を覚えるほどであるようだ。そして、自分たちは永遠に若く元気でいられると思うようである。

しかし、50歳か60歳かは分からないが、やがて自分にも永遠に続く若さがなくなり、やはり年を取って老人になり、いつかこの世とおさらばしなければならなないと思うようになるものだ。そして、人はある時期になると、「むなしさ」を感じるようになるようだ。

「むなしさ」とは、無常ということであろう。平家物語の「諸行無常」であり、方丈記の「久しからず」ということである。元気溌溂というものも永遠に続くものではなく、諸々が移り変わるということが、しみじみと分かってくるようである。この「むなしさ」を感じるようになる時期に入った人を、高齢者と言うのかもしれない。

「むなしさ」を感じるようになると、陰湿で、陰世的で、消極的になるように思えるが、「むなしさ」だけに浸っていればそうなってしまうだろう。人は年を取れば、誰でも大なり小なり「むなしさ」を感じるようになるはずである。とりわけ精神重視の生活をしている人ほど強く感じるということである。

高齢になって「むなしさ」を感じるのは仕方ないことだろうから、それを受け入れ、しかしその「むなしさ」を逆に活用するとよい。もしかすると、人はある時期になると「むなしさ」を感じるが、それを機に、また新たな次元に進むようにプログラミングされているのかも知れない。

人が「むなしさ」を感じるようになると、このままではいけないと思うようになり、そして世の中のために何か役立ちたいと思うようになるようだ。もちろん、思わない人もいるだろうし、思っても思うように出来ない人もいるだろう。しかし、これまでの偉人と言われる人や、我々後世の人間に役立つものを残してくれた人達は、やはりこの「むなしさ」から、後世のためにとやったのではないかと思える。

合気道でも、若いうちは相手と投げ合ったり、受けを取り合ってバタバタと稽古して満足できるが、だんだんと人を投げたり、抑えたりすることが「むなしく」なってくるものである。しかし、これは弱くなるとか、稽古の意欲がなくなるということではないようだ。逆に、ますます力が充実し、稽古の意欲も以前より倍増しているのである。

つまりは、稽古の質、自分の考え方、合気道に対する態度、稽古の仕方などが変わるということである。「自分が世の中のために何か役立ちたい」を合気道で実践したいと思うようになるのだろう。

相手を倒したり、抑えたり、極めたりするということは、言うならば、自分のためであり、世の中の役に立っているとはいえない。逆に、世のためには害になっているのかもしれない。

「むなしさ」からの稽古は、相手を思いやる、そして相手を育てる稽古になるのではないだろうか。相手を思いやることによって、自分も相手も精進することである。これを開祖は「合気道は愛である」と言われたのかも知れない。武道であるからには、自分を精進しなければならないが、その上に相手も精進させなければならないのだ。これが愛の武道ということになろう。相手を愛で導くわけであるから、以前とは稽古の次元が変わらなければならないことになる。

参考文献  『司馬遼太郎が考えたこと』(司馬遼太郎)