【第206回】 技の名前(後編:一 〜 五教)

一 〜 五教の名前は、前回の四方投げ、入り身投げ、小手返し、回転投げ、天地投の名前のつけられ方と違うようである。

前回の名前は、その名前からどんな技か、合気道をあまり知らない人でもある程度想像することができるだろうが、一教、二教など、数字が技の名前となると、稽古をしていない人には、どんな技か想像もつかないだろう。

しかし、1,2,3,4,5という数字を使っているということには意味があるはずである。

まず、1からはじまって2,3,4と進み5で終わるという、順序になっているということである。ということは1が初めで2,3,4,5と進むということだろう。1の一教が基本のベースであるから、一教がある程度出来なければ二教が出来ないし、二教ができないと三教が出来ないということであろう。

事実、一教が出来なければ、二教も三〜五教も出来ないものだ。二教も三教も四教も五教も、基本は一教からもっていかなければならないから、一教が出来なければ二教で相手の手首も取れないし、三教の手首や肘も取れない。三教ができなければ、四教で相手の手首や腕を締めることも出来ないものだ。

稽古はこの順序で、一教からしっかり稽古をして身につけていかなければならないことになる。一教が上手くいかないと諦めたり、疎かにしたのでは、先に進めないことになる。二教や三教が上手くいかない場合は、一教に問題があるはずなので、もう一度一教に戻ってやることである。

もうひとつの1,2,3,4,5の意味であるが、これは攻撃相手を崩す部位であると考える。

かって一教は「腕抑え」、二教は「小手回し」、三教は「小手捻り」、四教は「手首抑え」、五教は「腕伸ばし」とも言われていた。

まず、一教は基本中の基本であり、もっとも分かりやすい、腕を抑えて崩す技ということである。しかしながら、腕はけっこう太いし、力も入りやすいものなので、腕をおさえて相手を制するのは容易ではない。こちらの腕だけでやったのでは、相手に腕も体も返されたり、逃げられてしまう。しっかりした腕をつくって、腹腰と一体化した腕で相手の腕をおさえなければならない。その意味で、一教が最も難しいのではないかと考える。

二教は「小手回し」である。小手を回して相手の手首を極め、手首の極めによって相手の自由を奪い一体化する技である。

手首を極めるためには、相手の手首は腕の方向と十字(直角)になっていなければならないし、相手の十字になっている手首を、体幹からの力で自分の手首に集中しておさえなければならない。それには、一教で培った力と体遣いが生かされなければならないことになる。手首が極まらないようでは、一教が未熟ということになろう。

三教は「小手ひねり」であるが、手首の上の肘をひねって相手を崩し、相手を自由に制する技といえよう。

手首はよく遣うし、鍛えることも容易であるから、鍛錬するとだんだん効かなくなってくるものだが、肘を鍛えるのは容易でないので、よく効くようだ。また、体の末端を攻めても、なかなか人は崩れないものだが、体の中心に近い方が崩れやすいので、肘は手首よりも崩しやすいことになる。

三教は技として、二教と繋がっている。二教を掛けて相手が逃げようとするときなど、三教に変更して極めることも出来るし、相手が二教を掛けてきたのを三教に返す返し技もできるからである。

四教は三教の体の返しを遣うので、三教と繋がっていると言えるだろう。従って、三教が出来ないと四教は難しいことになる。

また、四教は相手の手首をおさえるが、相手の肘も肩もロックして体全体を崩す技であるから、二教や三教より厳しい技であると考える。

五教は「短刀取り」を想定した技で、一〜四教とは毛色が若干違うようだ。短刀で切り下ろしてくる手をおさえて、腕を伸ばして極める技である。

相手が得物(短刀)で打ちかかってくると想定しての稽古になるので、他の技より緊張感や恐怖感との戦いにもなる。心の稽古ということで、5番目になったのかも知れない。また、五教が効くためには一教の腕抑えが必要なので、一教に返るということで、最後の五になったのかも知れない。

理由は、よく分からないが1、2、3,4,5と順番は繋がっているし、何の違和感も感じない素晴らしいネーミングであると思う。