【第204回】 未来のために

50、60の「はなっ垂れ小僧」からもだんだん遠ざかってくると、ものの見方、考え方、そして自分と他人の見方が、以前と変わってくるようである。若い頃は自分が主体で、自分のために頑張るしかなかったようだが、年を取ってくるに従い、自分の周りの人や物に気を配る余裕がもてるようになるようだ。

合気道の相対稽古でも、学生時分の若い頃は、相手のことや周りのことに心を配って稽古をすることなど出来なかったし、考えることもなかった。ただ相手にやられないよう、相手をなんとしてでも倒してやろうと、時には争いになったりしたものだ。周りの稽古人の迷惑も考えずに、道場を所狭しと暴れまわっていたと思う。

70近くなると、自分のやってきた愚かさがわかってくるようで、元気があるだけで、何もわかっていないのに暴れまわって気張っている「はなっ垂れ小僧」だったことがわかるし、周りの若者も自分の昔と重ね合わせることによって、よりよく見えてくる。

見えてくるとは、彼らがどういう状態にあり、何を求めようとしているか、また求めるものが分からずに苛立ったり、不安を感じているなどということが、よく分かるようになるということである。

人は何かに向かって進んでいると思う。大人も子供もそうだろう。その何かを見つけ、または無意識でもそれに向かっていると、人は満足しているようだし、それが見つからなかったり、その方向に行かなかったり、逆らったりしていると、不満足であるようだ。

しかし、その何かは、家族も学校も会社も教えてくれない。だが、人はそれを求めている。合気道に入門する人は、合気道にそれを求めているはずである。ほとんどの稽古人は、それを意識していないだろうが、無意識のうちに、合気道にはその何かを教えてくれる何かがあるだろうと思って入門し、稽古を続けているのではないだろうか。

合気道を創られた開祖は、地球楽園、宇宙完成のお手伝いをするのが人の使命であり、そのため人は天からの使命を与えられている。そのことに気付かせ、導くのが合気道である、と言われている。

合気道は武道であるから、心身の鍛錬も大事だが、稽古人は誰でもそんなことは知っているし、出来る範囲でそうなるように鍛錬している。しかし、心身の鍛錬だけでは、完全には満足できないはずである。

若者や後進は、その何かを求めている。それは口で説明しても分からないだろうし、口先だけでは逆に反発されてしまうことだろう。やはり、合気道の技を通して伝えていくしかないだろう。そのためには、そのような技を遣えるようにしなければならない。遣う技が不完全ならば、相手に理解してもらうことも、導いて満足させることも、不可能である。

ということは、技を見ただけで、若い後進がその何かを悟るようにしなければならないのだろう。そう思うと、道は遠い。未来のためにも、頑張っていかなけれならない。