【第204回】 止まらない

開祖は生前、「今日、習ったことは忘れろ」と言われていた。また、技は日々変わっていると言われていた。だから、大先生一代で、柔術の技から合気道、そして武産合気の技と大きく変えることが出来たのだろう。結果的には、開祖の技はどんどん変わっていったが、開祖はいつもこれが最高のもの、最終的なものであるとして教えられていたはずである。

稽古は常に自分の最高のものを出し切ってやらないと進歩、上達はない。体の遣い方、技の掛け方など、これが一番だと信じ、それでやっていくのである。そのような稽古をやっていくうちに、上手くいくためのパターンができてくるはずである。

例えば、二教裏(小手回し)を効かせるために、両の手を絞り込み、自分の体重を相手の手首に掛ければよいということで、相手の手首をしっかり握って、下に押さえつけてくるやり方がある。押さえる方は二本の手を使い、受けは一本だから2対1となり、手に少し力をつければ容易に効かせることが出来るようになる。このパターンが身につくと、毎回このパターンでやるようだが、初心者や後輩相手にはだいたいは効くものだ。何しろ2対1でやっているわけだから。

しかし、この2対1に頼った稽古をしていたのでは、それから先へ進めない。この2対1は、2対1と言いながらも、手と手という同質の戦いだからである。
同質の条件のもとでもっと強くなるべく、さらに二教が効くようにと手を鍛えるだけでは、いずれ限界にぶち当たることになる。効かなくなってきて、そのために争いになってしまうのである。だから、別な次元に進まなければならない。

次の次元にいくためには、このパターンとは違った、いうなれば、これまでのパターンと正反対とも言える、異質なパターンでやらなければならない。新たなパターンとは、相手の手首を、手の強い力に頼らず、手の代わりに肩や胸(胴体)を遣ってきめることである。どんなに太い手首でも、胴体より太いものはないし、力も手首より胴体の方が大きな力が出るはずである。

そのためには、肩や胸を上手く遣わなければならないし、重心の移動や息の遣い方とも連動していなければならないので、2対1でのように容易にはできないだろう。それに、2対1の時期に十分に手を絞る稽古をし、強靱な手首をつくっておかないと、手に頼ることになって、肩や胸も上手く遣えないものである。2対1での稽古も、しっかりやらなければならないことになる。

合気道の稽古では、ある時点になると、今までと異質な、またはこれまでと正反対のことを、やらなければならなくなる。この「二教裏(小手回し)」の他にもいろいろある、というより、すべてがある時点から、それまでと正反対か異質の稽古をしなければならなくなると考える。

例えば、「諸手取り呼吸法」である。これも初めは2対1の腕なので、腕を鍛えなければならないが、次の段階では、腕の力に頼らず、腕より太い体幹(胴体)に頼る稽古に変えていかなければならない。

また、「呼吸」でも、はじめは「呼気」で体を伸ばして、身体つくりをするわけだが、その次の段階では、「吸気」でやる方が体を伸ばすのによいことがわかる。さらに、体を伸ばすのに最適な息遣いは、まず息を吸いながら伸びるところまで伸ばし、そしてそこから息を吐いて更に伸ばすことになるのである。

息の遣い方は、初めの内は吐くことが主になるが、これは身体をつくる上で必要なことだろう。また、この方が本能的で自然なので、考えなくとも出来るし、やりやすいので、誰もがまず「呼気」を主体にするものと思う。初心者にとってはそれが正しいやり方でもあろう。

これをそれまでと同じやり方でやっていけば、同じ次元でしか稽古ができな。多少力がつくとか、早くなるとかはあるだろうが、質的変化、劇的な変化はない。
稽古の面白さのひとつは質的な変化であり、これまでとは全然違う、むしろこれまでと正反対な劇的な変わりようであろう。

絶対というものは、ないようだ。しかし、その時はそれを絶対と信じてやらなければならない。また、合気道のパラドックスだ。

すべてのやり方は変わるし、変わらなければならないと言っていいだろう。やり方が変わるということは、考え方も変わらなければならないことになる。やっていることもいうことも変わらず、数年前と同じことをやったり、言っているようでは、数年前に止まっていることになってしまう。

止まってはいけない。何故ならば、動いたものが止まることは不自然であり、自然でないからである。宇宙は動いているのである。宇宙が止まらないかぎり、動くのが条理であり、宇宙法則に即しているはずである。