現在、地球上には60〜70億人が国や民族に分かれて生きている。人類の歴史は5〜600万年ほどだといわれるが、今生存している人類がここまで存続するためには厳しい生存競争に打ち勝ち、生き残ってきた結果である。
ここまで生き残ってきた大きな要因の一つは、強い身体をもっていたことであろう。強靱な身体、強い力である。
合気道でも他の武道やスポーツでも、まず体を鍛えるためにはじめる人が多いだろう。これまでの生存への遺伝子によるのかどうか知らないが、人はまだまだ少しでも強くなりたいと思うようだし、力負けしたくないし、そして力で抑えようとしてしまうようだ。
合気道では肉体の強い力は要らないということがよくいわれる。魄の力でなく、念や精神の魂でやればいいというのである。
半分は当たっているが、力は要ると考えた方がいい。特に、初心者は肉体の力でしか出来ないだろう。超念力を有するスプーン曲げのユリゲラーでも、力(魄)を使わずに念力(魂)だけでスプーンを曲げることは出来ないだろうし、ましてや念力だけで人など倒せないだろう。
まずは肉体をしっかり鍛え、力をつけなければならない。肉体に力がつかなければ、強い心(念、精神)が育ち難いだろうし、技も効かないはずである。開祖は、「肉体すなわち魄がなければ魂が座らぬし、人のつとめが出来ない。」(「武産合気」)と、まずはしっかりした肉体の魄を持てと言われている。
力はあればあるほど、よいはずである。力を誇ることはないが、恥じることはない。どんどん力がつくように鍛錬を続けるべきである。開祖は、力が悪いとは一度も言っていない。逆に、力の強さをよく自慢されていたぐらいであった。開祖の弟子の力自慢もよくされていたものだ。
しかし、開祖は力はなければならないが、その魄の力に頼って技を遣うのではなく、魂の力(意思、念、心)で技を掛けるようにしなければならない、つまり「合気は魄を排するのではなく土台として、魂の世界にふりかえるのである。魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。魄が下になり、魂が上、表になる。」(同上)と言われているのである。
合気道の理合を技で再現するのが稽古であるが、この「魄が下になり、魂が上、表になる」を、どう技で会得できるかということになる。技で体現できなければ、これをわかったことにはならない。また、それが出来たとしても、相手が弱かっただけかも知れず、普遍的な「業」でないかも知れないが、私がこれかとやってみた例を「諸手取り呼吸法」で紹介してみよう。