【第198回】 痛くないけど倒れる

晩年の開祖の演武や技は、実際にもよく拝見し、今でもDVD等で見ている。当時は、なぜ触りもしないのに屈強な者たちが倒れていくのか分からなかった。多分、内弟子や合気道の関係者なので素直に受けを取っているのだろうなどと思ったものだ。

特に入門したての頃は、触りもしないのに倒れるわざ(技と業)を、実際に見ている筆者さえ信用していなかったかも知れない。合気道を稽古している門人にそう見えるのだから、外部の人にはもっと八百長に見えたのではないかと想像する。

しかし、開祖や師範の演武では、門弟である受けが肩を抜かれたり、骨が折れたとかいう話を、昔はよく聞いたものである。諸手取り呼吸法で体ごと空中に舞い上げられそうになったので、足の指で畳を掴んで何とか頭から落とされないで済んだという話も先輩から聞いた。内弟子である受けが開祖の頭を木刀で思い切り叩いてしまったが、開祖の頭はどうもなかったという事を聞いたこともあった。こういう話を道場で実際に聞いたりしていると、受けは相当本気でかかっているので、馴れ合いとか、気を抜いてやっているのではないということが分かってくるようになった。

筆者が知っている開祖は血を見たり、怪我を非常に嫌っていた。道場の畳についた血を見つけるとすぐに拭き取らせ、塩で清めさせていたし、初心者が腰投げをしたり、女性を痛めたりしているのを見つけると烈火のごとく叱られ、すぐにお説教であった。従って、特に晩年はご自身も相手をする受けに血を流させたり、怪我をさせることのないようにされていたはずである。

そのために凡人なら、優しく、ゆっくりと技を掛ければいいと思ってそうするところだが、開祖のわざ(技と業)は電光石火である。凡人なら間違いなく怪我をさせてしまうはずである。体術もそうであるが、剣などの得物を持ったときの動きの速さなどは神業であった。それでも怪我をさせたということは、聞いたことも見たこともない。

触らずに倒れる不思議については、開祖の受けを取られた師範や内弟子や先輩に、どうして触りもないのに倒れるのか聞いたり、書籍で読んだりして分かったことは、「倒れなければ危ない」ので倒れざるを得なかったということであった。倒れなければ生命の危険を感じた故に、触られる前に本能的に倒れてしまったというのだ。

そういう目で開祖の演武を思い出したりビデオで見てみると、確かに受けを取って倒れずに頑張っていることは不可能であろうと思える。

開祖のように触れずに相手が倒れるまでになるのは、容易ではないだろうが、相手に苦痛を与えずに倒すことは出来るようだ。合気道はまず相手と一体となるわけだから、武道的に見れば相手は殺されていることになる。それ故、受けの相手はなるべく早く倒れて楽になりたいと願っているはずなので、技を掛ける方は無理して倒す必要はなく、相手が倒れるのをちょっと手伝ってやればよいのだから、痛くなくとも倒れることになる。

技を痛いと感じさせずに、技を効かせて倒すのもある。その典型的な技は二教裏(小手回し)である。理に合った技を掛ければ、手首に痛みを与えなくとも相手は倒れているものである。理とタイミングが合えば、相手は悲鳴を上げる場合もあるが、即座に蛙のように畳にへばりついてしまう。受けは非常に驚愕するようだが、手首は壊れてもいないし、痛くもないのである。

合気道の技は逆ではなく順であるということなので、技が理に適って上手く極まれば、痛くなくとも相手は倒れるはずである。従って、関節技でも、またどんな技でも、痛くして倒すのはまだまだ未熟ということになる。痛くなくとも倒れるようにしたいものである。