【第196回】 出来ないことは出来ない

合気道は技の鍛錬を通して精進していくもの(道)である。通常は二人で組み、受けと取りを交代しながら技を掛けたり受けたりする。原則的にはどんな高段者であっても高齢でも偉い人でも、技を掛けるだけではなく受けを取らなければならない。

しかし、時として、相手が倒れなかったり、崩れないということが起こる。そうすると、本来は相手が倒れる番なのに倒れないことに苛立ったり、出した力が足りなかったのだからやり方を変えればなんとかなるだろうとばかり、再度技を掛ける。取りには基本的に左右、裏表で4回のチャンスがあるわけで、やり直すというのはルール違反なわけだが、そんな頭はなくなって、なんとか相手を倒したいだけになってしまう。

しかし、たいていの場合は、再度、挑戦しても結果はそれほど前とは違わないものである。恐らく何度やっても、駄目であろう。出来ないことは出来ないのである。うまく技が掛からないのには、理由がある。うまく掛からない原因があるのである。その原因が分からなければ改善出来ないし、原因が分かってもそれを技に遣うことができなければ、技も掛からないことになる。

多くの人、とりわけ初心者は、倒れない受け手が悪いと考える。相手が頑張るのは意地悪しているのだろうと思うのだろう。もちろん、そういう人もいるだろう。しかしながら、問題が起きる時には、一方だけが悪く、一方だけに責任があるということはない。当事者双方、またはすべての関係者に、それ相応の責任があるものである。

相手が受け身を取らなかったり、頑張ったりするのは、技を掛ける自分も悪いのである。つまり、端的に言えば、受けが取れないように、または取りずらいように技を掛けているのである。関節技では関節を虐めるし、投げ技では力で押しつぶしてくる。これでは受けを取ろうにも取れないのである。

特に、相手を倒そう、やっつけようと思った瞬間に、受けはそれを感じ、無意識のうちに心身の防衛に入る。それが、自ら受けを取りずらくしているということである。

合気道の技は、相手を痛めたり、抑えたり、投げたりして、相手を制するものではない。初心者のうちはそのような稽古になるものだし、それしか出来ないはずだから仕方がない。また、そのような稽古によって体ができてくることもあるので、それも必要であろう。

合気道においても、技を掛けたらその結果として、相手が倒れていなければならないものであろう。従って、倒れていなければ、技は失敗ということになる。しかし、合気道の相対稽古では相手を抑えたり、捻ったりして相手を倒したり制するのではなく、相手が自ら崩れ、倒れるものでなければならない。関節技でも、痛いから受けを取るのではなく、痛くないが崩れてしまうようにしなければならない。二教、三教、小手返しなどはその典型である。

相手が大きいとか重いとかは、稽古では本来関係がないと言われるが、そこまでいくのはなかなか難しいものである。大きい人、重い人、力のある人など、自分の苦手な相手と当たると、技が掛からないことが多いものだ。掛かるように全力を尽くして稽古しなければならないが、力や闘志だけでは解決しないものである。

それよりも、技が掛からなかった事実を認識し、その原因を追及し、その解決策を講じ、それを稽古することである。この線上で稽古をするためなら、自主稽古で繰り返して試すことには意味がある。これなくして、いくら頑張って繰り返しやっても、出来ないはずである。これが「出来ないことは出来ない」ということである。

この問題が解決できたと思ったとき、うまく技が掛からなかった相手とまた稽古をしてみるとよい。再度失敗するかもしれないが、うまく出来る可能性もある。ただし、必ず出来るという保証はないし、何時できるかも分からない。本人の能力と努力と運次第である。

いずれにしても、失敗、つまり上手く出来ないことは、悪いことだけではない。その時には出来ないことは出来なくても、その出来ないことが稽古の目標になる。そして、また稽古をしてその目標に近づくことが上達ということになる。出来ないことは出来ない、しかし出来ないことから上達があるのである。