【第193回】 合気の道

合気道とは「合気の道」ということである。「道」であるからには、目標があるし、道に乗っていなければならないことになる。そして、その目標に向かって一歩一歩着実に進んでいかなければならない。目標がない稽古をしたり、踏むべき地を踏まずに跳び越えてしまったり、道を外れてしまっては合気の道にならない。やるべきことは着実にやっていかなければならないはずである。

まずやらなければならないことは「体の節々のときほぐし」である。体が硬ければ体は思うように動かず、技も効かない。体が硬いというのは、間接と筋肉が硬直しているわけだから、そこを柔軟にすればよい。相撲でもバレエでもモダン・ダンスでも、基本は体の柔軟さであろう。体が硬くては決して上達しないはずである。

合気道の形は体を柔軟にするようにつくられている。開祖は「合気道の技の形は、体の節々をときほぐすための準備です」と言われている。(『武産合気』)技を掛ける時も、掛けられる時も、自分も相手も柔軟になるように意識してやればいい。二人でストレッチし合っているようなものだ。自分の限界と相手の限界の紙一重上まで伸ばしたり、伸ばしてやればいい。

限界までなどと言ってしまったが、それは容易なことではない。かつて本部で教えておられた有川師範から、先生も限界まで歯を食いしばって我慢しながら稽古されていたとお聞きしたことがある。そのため歯がボロボロになってしまったそうである。おそらく一教や二教などでの決めや押さえで、限界まで鍛錬されていたのではないだろうか。

しかし、限界の稽古をするにあたっては、「愛」がなければ事故になる。「愛」とは、相手の身になって伸ばしてあげることである。合気道は「愛の武道」であることを認識しなければならない。

体の節々は、硬直したところがないよう、そしてますます柔軟性がつくよう、限りない鍛練が必要である。開祖の体は晩年になっても超人的な柔軟性を備えていたが、この鍛練の結果であったと思う。まずは、体の節々をほぐすことである。

体の節々がほぐれてきたら、次は「六根の罪けがれをみそぎ浄めていかなければならない」(同上)。これを「草薙の神剣の発動」と言うという。耳や口や目や鼻などに汚れがあれば、みそぎをして六根を全く祓い浄めて、宇宙の声(神の声)と交流出来るようにするというのである。六根が汚れていれば、この世を乱す罪悪を犯すようになる。

つまり、六根がみそがれると、魂の道が開かれるというのである。そして開祖は、「そうすると六根は光となって、表にあらわれてくる。六根が光を放ってくるというと、やることがみな魂の比礼振りということになってくる。己が物をうみだすようになる。外からのことも、内からのことも相交流していけることになる。外のことは、みな己れのことということが、はっきりわかってくる。」と言われている。

六根の罪けがれをみそぎ浄められると、「万有万真の条理が明らかになり、処理出来るようになる」(同上)というのである。すべてのものには法則性があり、また虫けらにいたるまで、各々天命を帯びていることが分かるということだろう。合気道の技は、この宇宙の法則を形にしたものであるから、その法則性に則った技遣いをしなければならないことになる。

そして「万有万真の条理が明らかになり、処理出来るようになる」と「宇宙生成化育の大道が明らかになる」(同上)というのである。

これが合気道であり、合気の道であると言われる。奥が深い。技が効いた、効かないで留まっている暇はないはずである。