【第188回】 真の自由

定年を迎え年金暮らしともなれば、それまでにない自由な生き方ができるはずである。毎日、勤めに通うというのがいかに自分の生活の多くの部分を束縛していたかを思い知らされる。しかし、中には仕事を辞めたことによって、自分の生活の時間の中で今まで占めていた仕事時間を埋めることが出来ず、時間を持て余している人も多くいるようだ。

合気道の稽古をしている人は、その点、心配はないだろう。それまでの仕事で遣っていた時間とエネルギーを、稽古に当てればよいからである。それもやりたくもないことをやるのではなく、好きなことをやるのだから、いくらでものめり込むことが出来るし、時間もエネルギーも好きなだけつぎ込めるのである。ようやく自由に生き、自由に好きなことが出来るようになったのである。しかし、この「自由」というのが曲者である。

「自由とは、辞書的解釈からすると、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うこと」(ウィキペディア)とある。また、「自由」という言葉は、福沢諭吉がリバティを訳したもので、好き勝手や自由気儘という意味であるともいう。

人間、老いも若きも「自由」に憧れ、少しでも「自由」になろうと夢見るが、完全に「自由な自由」など存在するものではなく、拘束、支配、不自由等と表裏一体となっている。従って、「自由」になろうとしても、必ず拘束、支配、不自由等の引力によって引き戻されそうになる。全くの自由の「自由」ならば、それこそ糸の切れた凧のように、本人にも分からないところに行ってしまうことになるだろう。自由には、義務と責任という不自由がある。

人は「自由」にはなりたいが、人に迷惑は掛けたくないし、出来れば自分のためはもちろん、人のためにも自由にやりたいと考えるのではないだろうか。本当の「自由」を目指す人は、人に喜びや希望を与えようとするはずである。

これは、若者にはなかなか出来ないことで、やはり高齢者の役割であろう。先がもう見え始めていているというのに、やっても金にも名誉にも結びつかないものを頑張っている「自由」派高齢者を若者が見れば、若者は年を取ることへの張り合いと希望、生きる意味、ひいては高齢者への憧れをもつのではないだろうか。そして、若い自分も年を取るまで頑張ろう、立派な高齢者になるよう頑張ろうと思うはずである。逆に、「自由」を謳歌しようとしない高齢者を見れば、若者は高齢まで生きる意味も希望をなくし、生きる張り合いをなくすことになってしまうだろう。

高齢者は「自由」であって欲しいものである。そのためには、それまで「自由」を束縛していたもの、つまり本当に必要なもの以外は、どんどん捨てなければならない。そうすれば自由になれると同時に、本当に必要なものが入ってくるようだ。時間もエネルギーも限られているのである。

合気道の稽古でも、「自由」でなければならないが、それは開祖が言われている「真の自由」のもとで、である。それは、自我と私欲を去った自由である。それを開祖は、「世の中はすべて自我と私欲の念を去れば自由になれるのであります」と言われている。

これが高齢者の進むべき自由の道であり、合気の道ではないだろうか。若者のため、後進のため、宇宙生成化育に「真の自由」で稽古を続け、生きていきたいものである。