【第184回】左手ですべての活殺を握り、右手で止めをさす

若い初心者は、相手を投げ飛ばしたり、抑えつけることが、稽古の励みになっているようである。技がないのだから、力と元気でやるしかない。これで体ができてくるわけだから、大いに力一杯やればよい。

しかし、いつまでも力と元気に頼る稽古はできない。それが出来る人でありたい人は、いつまでもやればよいが、いつか限界がくるだろう。体を痛めるとか、自分のやってきた稽古に対して懐疑を抱いたりする。体を痛めるということは、自分の体と他人の体を痛めるということでもある。自分の稽古に疑惑を抱くとは、長年稽古をしているのに、本質的には何も変わっていない、これからも変わらないのではないか、という疑惑と不安である。

合気道で人を倒したり、抑えるのは技である。力も技の内であるので、初心者が力を技として遣うのは仕方ないが、上級者になれば、いつまでも力に頼るのは感心しない。いつも力をつける必要はあるが、力を技に変えていかなければならないのである。力を極力効率的に遣うようにし、その少なく遣う力の分を技で補っていくようにする。

技が上手く遣えるようになるためには、技を信じなければならない。合気道の技は、摩訶不思議であるはずだ。日常の感覚にはない、超自然的な働きである。開祖が、合気道の技は宇宙の運行を形にしたものと言われているのは、このことなのかも知らない。

その技の摩訶不思議な例として、重心が落ちている側の五体(手足腰)に力と意識と息を入れて落とすと、五体の他方側が天に向かって浮き上がってくることである。例えば、天地投げで相手が両手を取りにきたとき、自分が重心を置く側の手を下に下げて体を転換させると、相手の手も下がると共に、反対側の相手の手が自然と浮上がっていくのである。

相手が意識して上がるまいとしても手が無意識で上がっていくのである。このとき相手は苦痛や不快は感じなく、気持ちよく相手のままについてくる。相手が浮き上がったところで、相手の力や体重は無になるので、自分と一体化したことになる。従って、それから先はどうにでも出来る。だから、無理して投げたり、抑える必要はないのだが、必要があればいつでも電光石火で投げ飛ばしたり、抑え込むことも出来るのである。

左右どちら側でもできなければならないが、左側を下げて、右側を浮かす方がやりやすいようである。どうもそれが自然の理であるように思える。

相手が自然に浮き上がってくる技の別の好例としては、「二教裏」がある。肩取り二教裏は、特に分かりやすい。右足を前にして、相手の左手を右肩にくっつけて手首の関節をきめるのだが、左手で相手の左手首を掴んで自分の肩にしっかりくっつけながら、重心を後ろの左足に移動すると相手の肩が浮き上がってくる。ここで相手と一体化し、相手の力がゼロになるので、重心を前の右足に移動しながら、相手の手首を肩で切り下ろせばいい。

天地投げと二教裏の例で述べたように、「五体の左側」で相手を結んでしまえば、入り身で右側や右前にいる相手の手と体は無意識のうちに浮いてくるので、そこから右手で投げたり、崩したりできるわけである。

開祖は、「左手ですべての活殺を握り、右手で止めをさす」と言われている。 逆でもできないことはないが、実際にはこの方が上手くいくようである。恐らく体の機能から来るのではないだろか。左側に心臓があるなど、体の左右は同じにはできていないからである。

しかし、現代の合気道は、右も左も公平に遣えなければならないので、前述の開祖の「左手」を「五体の重心が掛かっている側」、「右手」を「自由になっている手の側」と言い換えればいいだろう。二教や天地投げだけでなく、合気道のすべての技は、この五体の左右の働きを正しく遣いわけ、摩訶不思議な技になるように稽古を積んでいかなければならない。