【第180回】 呼吸法

合気道の修行は技の練磨である。これは簡単であるが、非常に難しい。簡単であるというのは、誰でも入りやすいということであり、難しいというのは、ある段階から上に進むのが難しいのと、ただやっても上達しないということである。

さらに、人によっていろいろなことを言ったり、場合によっては正反対のことを言ったりするので、どれを信用してやればよいのか迷ってしまう事なども、困難を増す理由となろう。その典型的な例としては、力を抜け、又は力をもっと入れろ、とか、力は要らない、いや、力はあった方がよいなど、全く正反対のことを言われる事が挙げられよう。

私が入門したのは1961年(昭和36年)であるが、この頃から合気道は一般に開放されはじめたようで、その数年前までは、紹介者が2名いないと入門できなかった。当時の先輩というのは紹介者を通して入門した人達で、体力も気魄も我々とは違っていた。ほとんどの先輩は、柔剣道や空手などである域に達した方々だったが、それには満足できず、合気道には何かがあるのではないかと思って来られたようであった。

そういう猛者達が稽古をしていると、大先生(開祖)がご覧になって、よく言われたことは、そんなに力を遣わなくてもいい、ということだった。そして、こうやればいいと、内弟子や先輩を二三本軽く投げ飛ばしていかれたものだ。だから、当時の稽古人は、いかに力を込めずに技を掛けるかを考えて、稽古していたと言えよう。

しかし、それから数年して、門戸が広く解放されたことで、それまで武道や運動をやったこともないような生徒が増えた。当然、力がないので、力の抜けた稽古が多くなるわけだが、大先生はそのような稽古をご覧になって、今度はしっかり力を入れた稽古をしなさいといわれるようになった。ちょっと触れただけで倒れるような稽古をやっているのを見つけられると、烈火の如く怒られて、「そんな触れただけで飛ぶような稽古はするな」と戒められたのである。

力を抜け、力を入れろと、大先生は矛盾することを言われてようだが、どちらもその場その場の的を得ているお言葉であり正しかった訳だ。しかしながら、後世になって、力持ちの猛者の先輩が合気道を教える時には「力を抜け」と言うだろうし、力があまりなかった同輩や後輩は「力を入れろ」と教えるのではないだろうか。なぜなら、大先生にそう教えられたからである。

開祖が本当に言われようとしたことは、「力を入れて、力を抜け」ということであると思う。力を入れない武道などあるはずがないし、といって、力を入れてばかりいることには無理があるからである。この「力を入れて、力を抜け」の一見矛盾するところに合気道の技の秘密があるような気がしている。

合気道の業(動き)の鍛錬法に、だれでも知っている「呼吸法」というものがある。しかし、これが満足に出来ないと、技は遣えない。「呼吸法」は、字面から見れば、息遣いの鍛錬法ということである。息遣いなどわざわざ合気道で鍛練しなくとも、日常生活でやっていることである。しかし、これが重要であると言われるのである。

合気道の業も技も、呼吸に合わせて遣わなければならない。呼吸によって、業も技も掛けていくものである。具体的には、先ず相手と接するまでは呼気であり、その時は「力を入れて呼吸(いき)を出し」、接してからは相手を投げたり、抑えるまでは吸気を遣い、力を抜くのである。力を抜くというのは浅層筋を張らないということであり、深層筋に働きかけるということである。そして最後の投げや抑えや決めで、再び呼気を遣うのである。つまり、呼気、吸気、呼気と遣って、一つの業や技をまとめるわけである。また、筋肉はそれに従って主に、浅層筋、深層筋、浅層筋と遣うことになるはずである。

このように、呼吸法は息の遣い方(呼気、吸気、呼気)、力を出す・抜く、浅層筋・深層筋の遣い方を自得するための、重要な鍛練法であると言えよう。この息遣いや筋肉の遣い方の呼吸法は、二教や四方投げなどすべての技を掛ける際にも、常に遣われなければならない。先ずは呼吸法で、その要領を身につけ、技に応用していくのがよいだろう。