【第180回】技は宇宙の凝縮

技の練磨をして進歩していくのが、合気道である。宇宙の法則に少しでも近づけるべく、技を繰り返し々々練習して、技を錬り磨き、自分の技を深めていくのである。自分の技をどれだけ練磨し、深めたかによって、相対稽古の相手への技の掛かり方も違ってくる。だから、相対稽古での技の稽古は、誰でも一生懸命やるものだ。

しかし、技の稽古に入る前の準備体操や基本準備動作には、技の稽古をするようには気持ちと力が入っていないに見受ける。手を上げ下げしたり、回す運動をしても、手は曲がったり、折れたりしたままで、腹・腰との結びがないのが多く見かける。そのような手では、準備運動にもならないし、技を掛けても効かないだろう。準備体操だから、力や気を入れなくともといいと思っているのだろうか。それに、気持ちが入っていないのは、体操だけでなく、道場や路上での歩行や立ち振る舞いにも及んでいるように思えるのである。

有段者であっても、二教、三教、小手返し等が上手くいかず、悩んでいる人は多いようだ。上手く出来ないのには、多くの原因があるわけだが、最も根本的な理由は、「一教が満足にできないから」であると言っていいだろう。相手の手を抑える自分の手がしっかりできていないので、「アソビ」が出来」て、相手に逃げられたり、頑張られてしまい、技が効かないのである。「しっかりした手」というのは、腰からの力が通り、折れない、そして腹・腰としっかり繋がっている手といえるだろう。一教がしっかりと出来ないと、二教も三教も小手返しもできないことになる。

このしっかりした手をつくるには、一教をしっかり練磨する他に、「呼吸法」で鍛えるのがよいと言われている。かって本部で教えられていた有川定輝師範はよく「呼吸法の出来る程度にしか技は遣えない」と言われ、毎回、呼吸法の稽古から始められていた。確かに、諸手取り呼吸法が出来るようになると、手がしっかりしてくるようである。

基本技には、一教、二教、三教、四教などがあるが、二教は一教が、三教は二教が、四教は三教が出来ないと難しい。これらの技はそれぞれ独立しているものではなく、隣の技同士が繋がっているといえるし、一連の繋がりがあると言えよう。

その一連のつながりとは、一言で言えば、「技を掛けた時に、それに反応する相手の動きに対応する動き」と言えそうだ。一教で技を掛けたところから、相手の受けがその痛みから避けるべく腕を縮め、手首を曲げるので、二教の小手回しで手首を攻めて崩す。二教で手首を攻めると、相手は肘を上げて逃げようとするので、三教の手に持ち替えて、小手を捻って崩す。三教で相手の腕を捻ると、相手はそれに耐えようと反発してくるので、腰を反転し四教で崩す、という具合である。

このように、一教から四教までの技は、受けが本能的に身を守る自然な動きであり、それに対抗するものと言えるのではないだろうか。従って、一教で崩れない場合は二教、二教が駄目なら三教というようにも繋がっていると言えよう。

基本技にはこの他にも、四方投げ、入り身投げ、回転投げ、天地投げ、小手返し等があるし、応用技もあるが、これらのすべての技に共通する法則があるはずである。例えば、技は十字、陰陽、反転々々、遠心力と求心力などで遣うことである。

合気道の技を練磨することによって体得していく法則は、宇宙の条理であり、宇宙の法則である。宇宙の法則を知るに従って、自分自身が見えてくるようになるはずである。

まずは、技の練磨を通して宇宙の法則を知り、自分自身を知っていくわけだが、準備体操や基本準備動作においても、さらに日常生活の一挙手一動においても、技の稽古と同じように心身をすべて入れ込み、宇宙と同化するよう努めるべきであろう。技だけを練磨するものではない。

開祖は、「合気道の体得をしたならば、宇宙の条理が分かり、また、自己を知り、分ってくる。例えば、剣一本動かすにも自己が全部入り、宇宙と同化している。」(合気真髄)と言われている。

道場の相対稽古や自主稽古での技の稽古だけでなく、準備体操や基本準備動作でも、すべて一つに凝縮していかなければならない。つまり、宇宙の条理である。宇宙の条理、宇宙の法則に、技も業も、さらに日常の動きや動作も凝縮していきたいものである。