【第18回】 天の浮橋に立つ(試論1)

開祖はよく、「合氣道は『天の浮橋』に立たなければならない、『天の浮橋』に立たなければ武は生まれない。」と言われていた。「天の浮橋に立つ」とは何か、が分からなければ、合気道の精進はないということなので、難しいだろうが敢えてこの「天の浮橋に立つ」に挑戦してみよう。

「天の浮橋に立つ」とは、一般的には古事記にあるようにイザナギ、イザナミの神が天の浮橋に立って天のヌボコで国生み島生みをした神話を指すが、これでは開祖が言われている「天の浮橋に立つ」意味がわからない。
開祖の講話や合気道新聞に書かれた言葉や文章には、「天の浮橋に立つ」という言葉は頻繁に出てくるものの、「天の浮橋に立つ」を詳しく説明しているものはない。

合気道の稽古では、この「天の浮橋に立つ」とはどういうことなのか試行錯誤しながら探求しているが、この探求は延々と続く永遠のテーマであろう。どこまで分かるようになるかは不明だが、何か少しでも、たとえ一片たりとも掴めればいいと思う。
このようなテーマに対する答えは一度にできるものではないから、新たな答えが出てくればまた書くとして、何回かにわたり書いてみることにする。

最近、合気道の稽古で気が付いたのは、「天の浮橋に立つ」ためには力んだり、手足や体に力を込めては駄目だということである。例えば、相手に手を取らせたとき手を突っ張ったり、力んだり、引っ張ったり、押し付けたり、上げたり下げたりする手は、相手と結ばない。相手と結び、相手の力が抜け、相手が自然についてくる手は、水中や空気に浮いているような手のようである。天地、陰陽、魂魄、気体、強弱、重軽、遅速、硬軟、活殺の対極を備えた手である。 この手であれば、相手が掴んできても、相手は力が奪われて、中心を失い、争う気持ちが消え、こちらの思うままに付いてきてくれる。しかも、喜んで(嫌がらずに)受けをとってくれるようである。
また、この手や体の使い方をすれば、地球の引力とも調和しやすく、自然の力を味方にしやすくなる。

中国武術の八卦門両儀堂の主宰者である清水豊氏は、「合気道マガジン」誌の「合気道の神道原理」連載の第一回目で、「天の浮橋に立つ」について、

「天の浮橋に立つ」とは、神道神学上は特別な意味を持っているのである。江戸時代の儒学者・山崎闇斎は垂加(すいか)神道を創始したが、その秘伝の一つに「天浮橋之伝」がある。それによれば「天浮橋」とは、不通を通ずる義、陰陽感通の処を云、橋箸端よみ通ず、上に立つとは、陰陽共にきっと立て感通するを云うなり、とある。つまり、陰陽というような本来対立して融合することのない二つの要素を融合させる。それが「天の浮橋に立つ」ということの本義なのである。
と書かれている。

人は力を入れないと不安になるため、力を抜くのは容易ではない。勿論、力がないものは力を抜きようがないわけであるから、初めは充分力がつく稽古をしてしっかりした手や足腰をつくらなければならないが、その後は「天の浮橋に立つ」の稽古に入らなければならない。