【第179回】 直感と山彦の道

開祖は「合気道には形がない」とよくいわれていた。しかし、実際には、合気道の技をきちんと練磨しなければ、合気道を精進できないのだから、少なくとも初心者の段階では、合気道には形があると考えた方がよいだろう。

合気道は、技の練磨を通して精進する道であるが、はじめは宇宙の条理(法則)に則った技を遣うべく、意識と呼吸を入れて技を磨いていく。これを20年、30年と続けていると、宇宙の営み、宇宙生成化育からの宇宙の条理が、少しずつ身につき、技で遣えるようになってくる。例えば、陰陽、十字、螺旋、引力、結び、愛等である。

宇宙の条理に則したものは、美しいし、強いし、正しく、いわゆる真善美を包括している。従って、人はそれに共感する。逆に、宇宙の条理に反しているものは、人の心を乱し、争いを招き、世を乱すことになるので、人は反感を持つのである。

宇宙の条理に沿っているか否かは、どうも「直感」で分かるようである。開祖は晩年、我々稽古人が道場で稽古をしているのを、廊下や事務所からちらちらとご覧になられていたが、時として烈火のごとくお怒りになり、道場に入られて来られることも度々あった。その時、ほとんどの稽古人はなぜ開祖がお怒りになったか分からなかったが、開祖のお説教を聞いたり、後で分かったりした。例えば、女性を腰投げで投げり痛めりした時とか、開祖がやられた気形の稽古を真似してやった時とか、暑い時に道着の前をはだけていたとか、足を投げ出していた等をご覧になって、怒られたのである。

開祖は理屈で怒られたのではなく、「直感」で怒られていたのだと思う。宇宙の条理に反したものをご覧になった瞬間、お怒りになって、道場に入られ説教されたのである。開祖の怒った姿は恐ろしいもので、誰も顔を上げられず、ただうつ向いていたものだ。あんなに激しく怒れる人は、恐らく地球上にはいないだろうと思ったくらいだった。しかし、怒ってお説教をし、我々が反省しているとわかると、さっと道場を出ていかれてお部屋に戻られたが、再び道場にお見えになった時は、前のことを忘れたかのようにご機嫌をよくしておられた。開祖の行動は頭で考えてのことではなく、集合的無意識の世界からの「直感」でなされたことなのであろう。つまり、「直感」で怒られたわけである。

開祖は、「山彦の道」がわかったら、合気道は卒業だとも言われている。この「山彦」は、合気道の修行上重要なポイントであることになるので要研究である。 初心者のうちは技と業をしっかりと意識したり、考え、反省、試行錯誤しながら精進していくものだが、その後は、「直感」で動けばいいようにならなければならないということだろう。これを開祖は「合気道には形がない」とか、「動けば合気道である」とか言われたのではないかと考える。

この、「直感」で即動く、これが「山彦の道」であろう。合気道はこれを目指して精進しなければならないのではないだろうか。開祖は「山彦の道が分かれば合気は卒業」とも言われているからである。孔子の言う「六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従えども矩をこえず」も、「直感」による「山彦の道」を言っているように思える。合気道で「山彦の道」が出来るようになれば、生活すべてでも「直感」で過ごせるようになるはずである。

参考文献: 『単純な脳、複雑な私』 (池谷裕二著 朝日出版社)