【第177回】 魂 − 神様と古事記 −

昔はほとんど毎日、旧本部道場で2,3時間は稽古していたものだが、晩年の開祖が道場をのぞいては、神技をちょっと披露されることがよくあった。その折には神様や古事記のお話をされたり、神楽舞もよく舞われ、神様へのお祈りもよく道場でされていた。

その時の開祖は、『武産合気』に書かれているように、「霊界をこの魂に写しとって、この営みの気を武産合気として、現わすことが必用であります。古事記の営みの実行で、神習っていかねばなりません。」とか、「武産合気とは、自己の魂が、身心によって科学されて出てくるものである。だから神代からの歴史(古事記)を、自己の想念の内に吸収せねばならない。」等と、我々に合気道を説明されていた。

しかし、我々稽古人はみんな、身体を動かしたくてうずうずしている連中だったので、開祖の話をあまり身を入れてお聞きしなかった。なぜ、ここに神様や古事記が出て来るのか分からなかったし、合気道と神様や古事記が繋がっているなど、考えてもなかったからだ。今となれば、大先生のお話をもっと真剣に聴いていればよかったと後悔している。どの先輩や同輩もそうであろう。

後悔しているというのは、開祖のお話を真面目に聴かなかったということだけではなく、神様や古事記のお話を少しでも沢山お聴きしておくべきだったという後悔である。今になって、合気道は神様と古事記と非常に深い関係があり、それは非常に重要であることが薄々とではあるが、やっと分かってきたからである。

前回書いたように、人に真からの感動を与えるのは、人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域である集合的無意識を鳴り響かせるからである。身近でよく分かるのは、絵や音楽などであろう。

合気道でも、相対稽古の相手の集合的無意識を鳴り響かせるように修練しなければならないことになる。その為には、神が宿っている太古の世界であり、神話の世界である集合的無意識の世界を、開発していかなければならないことになるはずである。

ドイツの作家トーマス・マンは、「人間の魂の深部(集合的無意識)は、同時に太古でもあり、神話の故郷であり、生の根源的規範と生の原形が基礎をおいているところの、さまざまな時代の、あの泉の深部である。」(『自我と無意識の関係』)と言っている。つまり、魂(集合的無意識)の深部とは神の世界であり、神話(古事記)の世界でもあるのである。

合気道を精進するためには、この魂の深部である集合的無意識を開発しなければならない。そのための方法として、開祖は「神話の故郷」でもある集合的無意識の中に入っていって、古代の神や神話(古事記)と結ぶべく、神様や古事記の話をされたものと考える。というより、神様や古事記を引用しなければ、魂の深部である集合的無意識に結びつかず、響き合わず、合気道にはならなかったのではないだろうか。

そう考えてくれば、開祖が神様や古事記の話をされたことや、神様とコミュニケーションを取られたとか、神になられた等といわれたことを、理解できるのではないだろうか。

参考文献  『自我と無意識の関係』(ユング著)人文書院