【第176回】 感動し、不思議がる

年を取るにつれて、人は物事に感動しなくなるし、不思議がらなくなってくるようだ。そんなことは自分は知っているとか、出来るとか出来ないとか、興味がないとか、自分には関係ないとか、そんなことは当然である等と考えるようになるらしい。子供なら誰でも持っているこの感動する能力が、だんだん少なくなってきて、ちょっとしたことでは感動がなくなったり、驚かなくなる。

常に子供のような素直な好奇心を持って、不思議がり、驚き、感動することは、何をするにも大事である。これがなくなれば、よい絵を描くことも、未知の科学を研究することも、人を幸せにするビジネスを創造発展させることも出来ない。人に感動を与える絵描き、科学者、ビジネスマンは自分のやっていることを自ら面白いと思い、自ら感動した結果、いい結果を出しているよ言ってよいだろう。

合気道でもこの感動や驚きがあるから、上達があるはずである。稽古をしていって、感動がなくなれば、稽古が詰まらなくなり、いずれ止めてしまうことになるはずだ。

合気道の稽古を続けていて、まず感動するのは、「出来た」ときであろう。受け身ができた、或る技ができた、相手を上手く投げることができた等々であろう。初心者の頃は、このような感動で、もっともっと稽古を頑張ろうとするものだ。これは、素直な好奇心を持っている子供の時期に相当すると言えるだろう。これが反抗期の青年期になり、マンネリ化する壮年期、中年・老年期になってくると、合気道の稽古もマンネリ化してきて、感動がなくなってしまうようだ。

感動がなくなってくるのは、感動できるものに触れないからである。触れることができないのは、それを探そうとしないからである。すべてのことが分かっていると思ったり、知ろうとしないからである。自分が何も知っていないことを、知らないからである。いわゆる「出来上ってしまって」いるのである。

自分が何も知らないことが分かったとき、感動の旅が始まる。合気道でも、そうである。相当長く稽古をしていても、「合気とは」「道とは」「呼吸とは」「呼吸法とは」「一教と二教の違いとは」等などに答えられる人は少ないだろう。自分の体のこと等も、ほとんど分かっていないはずである。「魂、心、意識」なども分らないだろうし、それを技にどう遣っていくのも難しいはずである。

そもそも合気道は何を目標にして修行するのか、分かって稽古している人もそれほど多くないだろう。つまりは、何も分かっていないということである。まずこれを認め、ゼロのスタート地点に立つことである。素直な子供心に戻るのである。

知らない、出来ないから、知ろう、出来るようにしよう、とするのである。一つのことが出来たとき、知ろうとしていたことが分かったとき、感動が生まれる。知らないこと、出来ないことが多いのだから、感動はいくらでも得ることができるわけである。その感動を呼び起こして出来た知識や知恵や経験が、合気道の上達になるはずである。

手の7つの関節がお互いに直角(十字)に動き合うように出来ていたり、技は十字に掛けるように出来ていたり、また宇宙生成化育の営みの姿は十字であるようで、合気道は十字道とも言われることも、なるほどと分かったときの感動は大きいだろう。

合気の道の出発点に立ち戻って道を進めば、誰でも感動を得られるはずである。感動がないのは、別の道に入ってしまっているからかもしれない。感動を得られる修行を続けていきたいものである。