【第176回】 集合的無意識と合気技

合気道を修行している合気道人口は150万人とも言われ、ますます世界中に広まっているようだ。本部道場にも多くの外国人が稽古をしているし、いろいろな国からの稽古人が休暇を取って稽古にも来るが、年ごとに国の数と外国人の人数が増えてきているように思える。この忙しい競争社会の世の中で、激しい競争に勝つためのメリットもあまりないだろうし、お金や名誉にもならない合気道がますます発展しているというのは面白い。

合気道には人を惹き付けるものがある。だが稽古人のほとんどがそれに気が付かないか、意識せずに稽古に励んでいるようである。しかしながら無意識では合気道の何かに惹きつけられているはずである。それが合気道にますます多くの人を引き付けているのであろう。

合気道の主な稽古は技の練磨であるが、これが容易ではない。宇宙生成化育の営みを形にした合気の技と業は、意識を集中して練磨しなければならないのだが、相手に意識されたのでは技として効かないからである。技が真から効くためには、相手の無意識を引き出し、無意識のうちに倒したり抑えてしまわなければならないのである。この無意識の世界の中には、勝った負けた、やったやられたを超越しての感動があるはずだ。やられても、気持ちのよい感動である。

開祖の技は、今、映像で見ても、受けを取っているひとが皆、感動の表情をしている。誰一人として負けまいとしたり、痛そうな顔や嫌な顔をしている人はいないのである。

人は絵や音楽や詩に感動する。すべてではないが、感動するものがある。どうして感動するのか。ドイツの作家、ゲアハルト・ハウプトマンは、こういっている。「詩作とは日常語(Worte)を使って始原語(Urworte)を鳴り響かせることである」

また、スイスの深層心理学者であるユングは芸術と感動と無意識についてこう書いている。
「集合的無意識の原型的イメージに触れることこそ、芸術作品のもたらす感動の秘密に他ならぬ。つまり、原型的イメージは人類が太古からくり返してきた無数の体験の集積であり、平均である。 芸術創造によって原型的イメージが作品のなかに完成されるということは、個人的・一回的なものが、全人類的・恒常的なものへと普遍化されて表現されることである。作品を通じてこれに出会うとき、ふだん埋没してしまっている生命の内奥に通じる根源の道を、われわれは見出すのである。いわば、日常性・個人性を越えた人間存在の普遍的原点に到達したときに生じる共鳴こそ、芸術作品の与える感動なのだ。」(『自我と無意識の関係』人文書院)

人に感動を与えるのは、人の無意識に働きかけることのようである。しかも、無意識でも集合的無意識である。無意識とは通常は意識されていない心の領域・過程であるが、無意識には個人的無意識と集合的無意識(又は普遍的無意識ともいう)がある。個人的無意識は個々の人間に固有な無意識であるが、集合的無意識は人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域であるという。

日常の言葉によって、集合的無意識が鳴り響くのが感動する詩ということになろう。絵でも音楽でも集合的無意識まで届くものが感動を与えるということになるだろう。

かつての開祖の技は、まさに無意識の世界で行われたものと考える。合気道で技を練磨するのも、人間の魂の深部にある集合的無意識に働きかけるように修行していかなければならないのだろう。

参考文献  『自我と無意識の関係』(ユング著) 人文書院