【第163回】 形(かた)と技(わざ)

合気道は技を修練しながら進む、宇宙に結ぶ道であると言われる。技が出来なければ、それ相応にしか真理は掴めず、道も進めないことになるから、技を磨き身につけていくことが大事になる。

合気道では、空手や柔道のように「形」や「型」(かた)と言う言葉を使わない。空手や柔道などで使う「かた」を合気道では「技」や「業」と言っている。しかし、合気道をはじめるに当たっては、だれでも先ず合気道の技の「かた」を覚えなければならないが、その「技のかた」も「技」と言っているので、多少誤解と混乱があるように思える。今回は「形」(含む型)と「技」(含む業)の意味と違い等を考えてみたいと思う。

一般的に、形とは武道やスポーツや芸道などにおいて規範とされる、一定の体勢や動作とされている。講道館柔道では、「形はあらかじめ順序と方法を決めて練習すること」とある。従って、形は目に見え、順序ややり方が決まっていて、誰にでも出来るようにできているはずである。それ故、形は、体や部位の姿や体勢を映画のコマオトシのように分解することも、止めたりも出来る。また、基本的には等速で動くことになる。だから、体をバラバラに遣って、一つの部位だけの稽古も出来る。また、形を覚えたり、教えるときに、1,2,3・・と号令を掛けて稽古することもできる。故に、形では人は倒れないし、形は人を倒す目的のもではない。

これに対して「技」とは本来、相手を倒す技術であるので、相手に見透かされたり、次の動作が予測されてはいけないはずである。その為、動きが止まったり、動きが等速であってはならない。直線的な予測可能なものでなく、加速度のついた渦状の動きとならなければならないだろう。つまり、技には時間という要素が加わることになる。また、体をバラバラに遣うのではなく、統合して遣わなければいい技にならない。体全体を生かし、遊んでいる部位がないよう、呼吸に合わせて統合して動かさなければならない。

「技」は「形」と違って、誰にでもできるというものではない。「形」は習うことと教えることができるが、「技」は基本的に習うことも教えることも難しいと言える。いくらよいことを教えようとしても、受け取る方に理解しようとする気持ちと能力がなければ意味がないだろう。

技を学ぼうとするものは、自分のレベルでしか技を学ぶことができない。技は自分主体で学ばなければならないので、他人からの教えを待つのではなく、自ら積極的に取り込んでいかなければならない。特に、上手な人の技を真似ることは必要である。これを「技は盗め」ということであろう。

しかし、技を盗むのもそう容易ではない。盗むためには盗むだけの目が出来ていなければならないからである。つまり、出来た目のレベル程度しか技は盗めないので、弛まぬ努力で技を磨きながら目も養い続け、目のレベルアップをしていかなければならないことになる。

初心者はまず、正確な技の形をしっかり学ぶことが大事である。形は、先人が心血を注ぎ創り残した遺産である。自分に形を合わせるのではなく、形に自分をはめ込んでいくのである。形ははじめ自分の自由な動作を制限し、「型」にはまる感じがあるが、それが自分の無駄な動きを省き、動きのずれを修正し、動きの座標軸となり、無駄のない機能的で美しい動きの土台となるのである。また、形の稽古を通して必要な筋肉や骨格をつくることにもなる。

形をしっかり覚えたら、その形に拍子や螺線の時間が加わって、動きにのせた技にしなければならない。宇宙の知恵を投入しながら、技を練磨していかなければならないのである。行き詰ることもあろうが、技に行き詰ったら、形に戻るとよい。行き詰ったら、いつでも原点の形にもどることである。

合気道で得てして誤解が多いのは、技の形を覚えたことが技が出来たと思ったり、合気道が出来たと思ってしまうことである。「形」を覚えたことは合気道修行のスタートラインに着いただけのことであり、ここから本格的に技の稽古に入るのである。ゆめゆめそのことを忘れないようにしなければならないだろう。

形だけで人を倒すことは出来ない。人を倒すには倒すための技術の技がいる。そして技を通してしか真理は見つけられない。