【第162回】 老い

人はみんな年齢(とし)を持っていて、社会の中ではその年齢が大きな役割を果たしている。何歳から保育所に入れるとか、学校に入学できるとか、何歳までの求人募集とか、何歳で定年とか、また結婚相手の年齢差は何歳まで等々である。

この年齢というものは万人共通の速度で増えていく。これほど万人に平等に与えられたものは他にないのではないだろうか。金持ちも貧乏人も同じである。

一般社会でも、仕事の世界でも、そして武道の世界でも、若い人、年は取っているが若々しい人、若くても老いている人、年を取ってそれ相応に老いている人など、年齢と外見の組み合わせは多様である。合気道の稽古をしている人の中にも、年を取っているようだが若者以上に元気に体を動かしている人がいると思えば、若いのに年寄りのように覇気のない緩慢な稽古をしている、いわゆる若年寄もいる。

人は少しでも若くいたいし、若々しく活動し、生きていきたいと願っているはずである。特に女性はそうではないだろうか。女性は美容体操に励み、化粧をし、着飾る努力を一生懸命にやっている。外見は年齢とは正確な相関関係はなく、人の外見は努力と心掛けによるところも大きいため、多少のズレの可能性があることを女性はよく知っているのである。

老いと年齢に正確な相関関係がないとすると、老いないように、あるいは老いを遅れさせることも、できるはずである。確かに道場で稽古をしている年配者を見ても、若者より若々しい稽古をしている人が多くいる。力強く速い動き、大きな業、ギラギラした目、輝く顔など、まだまだ青春を謳歌しているようである。

しかし、若いとか老いはなにも外見だけではない。考え方や気持ちにもよる。外見をハードとすれば、考えや気持ちはソフトと言えよう。このハードとソフトは、年齢的には多少の相関関係にあるようだが、正確な相関関係にはないだろう。ハードはどうしても時間による老化は避けられないようだが、ソフトの方は時間の束縛はほとんどない。ハードを若くしようとする努力をするのもいいが、ソフトを若くするようにする方が効率的ではないかと思う。

ユダヤ系ドイツ人で米国に渡った実業家サミュエル・ウルマンが「青春」という詩で、青春と老いについて次のように詩っている:

 青春とは人生のある期間ではなく、
 心の持ち方を言う。
 年を重ねただけで人は老いない。
 理想を失ったとき初めて老いる。
 歳月は皮膚にしわを増すが、
 情熱を失えば心はしぼむ。

老いを近づけないためには、理想と情熱を失わずに、合気の道を進むのがよいのではないだろうか。