【第161回】 知らないことが分かってくる

年を取れば、生きた時間に比例して経験は豊富だろうし、知識も生きるための情報(知恵)も若者に比べて多いだろう。もちろん例外はあるだろうが、相対的にはそういうことがいえるはずである。少なくとも年を取った本人自身を若いときと比べれば、若いときの方が経験豊富だったとか、物事を知っていたなどということはないはずである。

しかし、人がどんなに年を取っても、知り得ることは高が知れているようである。大半の人が知っていると思っていることは、仕事や生活に直接的及び間接的に必要な、身近で表面的なことがほとんどであろう。この日常生活のためのノウハウを知ることが一般的には知るということであるだろう。

人は年を取れば、いろいろなものが見えてくるようになる。自分の知らないことが見えてくるようになる。自分自身のことを如何に知らないか、例えば自分の体のこと、自分の心のこと。自分は何処から来て、どこへ行くのか。自分は何故この世にあるのか。また日本のこと、世界のこと、人類のこと、宇宙のこと。それがほとんど分かっていない、等ということが分かってくる。実際、ほとんど何も知らないと言える。どんな物知りでも、どんなに計算に長けている偉い学者でも、自分の死ぬ日も知らないのである。

合気道でも、年を取ってくると自分が知らないということ、出来ないということが分かってくる。若い頃はなにも不可能なことはないと思っていたし、出来ないことなどないと思っていた。また知ろうと思えば何でもすぐ分かるものだと思っていた。

しかし、今や稽古をやればやるほど、知らないことが雨後の竹の子のように現出する。一つを知ると、すぐ三つの知らないことが出てくる。

知らないことがあることを知ってくることで、新たな稽古が始まる。原点に戻って、再出発しなければならなくなる。自分の体も技も、はじめから見直さなければならなくなる。自分のものと思い、自分の思うとおりに動くものと思っていた体は、なかなか思うようには動いてくれない。そもそも体のことなどほとんど知らなかったことに気がつくのである。基本技もほとんど出来ていないことも分かってくるし、最も容易と思われる一教が最も難しく、重要であることも分かってくるようになる。

しかし、この何も分からなかった、何も出来ていなかったということが分かったところから、合気の道に入り、本格的な体の遣い方や技の修練が出来るようになるのではないかと考えるのである。