【第157回】 武道は孤独

合気道を稽古している人は、入門動機もそうだが、入門時期や年齢はまちまちである。若いときから始めた人もいれば、かなり高齢になってから始めた人もいるだろう。合気道は試合もなく、あまり激しい運動ではないので、歩くことが出来れば誰でもできるだろう。

誰でも、そして何歳から入門しても、始めは張り切って稽古をするものだ。未知の物を知る喜び、出来なかったことが出来る楽しさ、稽古を終わったときの充実感と、明日への期待を抱くものだ。

長く稽古を続けて高齢になってくると、よく言えば個性がでてくるが、悪く言えば癖で固まってくることもある。長年稽古をしていれば、合気の体が出来てくるし、技の型も身についてくるので、初心者などが相手をしても技が通じないようになってくるからである。

人は上に目標となる人がいて、上を追っているときは、進歩、上達がしやすいが、上の目標がなくなるとそれが難しくなる。よい師範に恵まれるなど、上に目標がある人は幸せであるが、通常は目標としている人が年齢も上なので、何時かはいなくなってしまうものだ。

本当の稽古はここから始まると言えよう。目標が目の前になければ、自分自身で探し、研究しなければならない。武道は基本的には、孤独なものである。しかし、武道の孤独は一般社会での陰気で消極的な孤独ではなく、活動的で積極的な孤独である。この孤独を合気道の言葉で言えば、「天の御中主」になるということであろう。

目標としていた師範や先輩がいなくなって孤独になった時に、不思議なもので、師範や先輩の教えがわかるようになる。当時は手取り足取りして教えてもらっても出来なかったことが出来るようになり、丁寧に説明されても理解できなかったことなどが、孤独になって始めて分かってくるのである。昔につながってくるのである。確かに自分が生徒や後輩に教えても、彼らはその場ではなかなか出来ないものである。でも、いつか「天の御中主」になったときに出来るようになるだろうと信じている。