【第156回】 年を取る楽しみ

若い時代と高齢期を比べ、違っていることはいろいろあるが、その一つは、若い時分は自分がどうなるのか、どんな人間になるのか、皆目検討がつかなかったこと、もう一つは、自分はやろうとすれば何でも出来ると言う自惚れがあったことであろう。20、30歳では、60歳の自分がどうなるか想像もできなかったし、しようともしなかった。若いうちは、自分がこのまま年を取らずに若いままで年を重ねると思っていたようだ。

若いうちは、明日に希望を持つ。今出来なくとも、将来はできるようになるはずだとか、将来はもっとよくなるなどと、無責任に考えていた。

合気道の稽古をしていても、将来に希望を持って稽古をしていた。今できなくとも、5年後10年後には出来るはずだと信じた。年配の先輩に敵うはずもなく、ただひたすら怪我をしないように受身をとるしかなかったわけだが、心の内では、今に見ていろ俺だってと、未来に希望を託していたものだ。

年を取ってくると、若者の考えややり方が見えてくる。自分が歩いてきた道だからである。道場の若者を見ても、自分と比較できるのでよくわかる。今はこういう段階にあるのだとか、あの問題に悩んでいるな、等である。若者が愛しくなる。若者のために出来るだけのことを伝え、残してやりたいと思うようになる。

年を取ってくると、死をだんだん意識するようになる。寂しいことではあるが、悪いことばかりではない。よいこともある。誰かが言ったようであるが、「人は死を意識してはじめて、本当の仕事ができる」と。本当にそう思う。これが本当の大人というのであろう。

人は年は取りたくない、若くいたいと願うようだ。しかし、人が年を取って死んでいくのは、自然の摂理であり変えようがない。自然に生きるのがよいのではないか。つまり、誰もが年を取るのだから、嘆き悲しむより、年を取る楽しさを味わうことである。

合気道の稽古に関して言えば、60、70歳になれば、60,70歳の「わざ」(技と業)を遣うことである。それまでに生きてきて積み重ねてきた経験、知識、知恵を「わざ」に凝縮することである。これは、若者が逆立ちしてもできないことである。巾が広く、底の深い「わざ」になるはずである。

「わざ」は年を重ねたものが出てくるはずなので、365日稽古した一年後の「わざ」は変わっているはずである。勿論、その為には、毎回の稽古を真剣にやらなければならない。一回の稽古、1日の稽古で、何か新しい発見がなければならない。稽古に行けば何か得るものがあるだろうというような消極的な稽古ではなく、今日の稽古はこのテーマや問題を解決するためにやろうと、課題を持ってやらなければならない。問題意識を持たない稽古は、本当の稽古にはならない。

今日の稽古で少しの変化や上達があれば、明日も上達が期待できる。そして、また一年後が期待できる。そうすれば、10年後が楽しみになるだろう。今出来ないことが出来るようになるかもしれないし、今は想像も出来ないことができるようになっているかも知れない。今では、早く80、90歳になりたいと思うようになった。