【第155回】 子供の心

人は誰でも年をとる。生まれて子供として生き、そして大人になり、高齢者(昔は老人といった)になっていく。生物的にもそうだろうが、社会的にも子供、大人、高齢者の区別が必要だ。子供と大人、大人と高齢者の明確な区別の定義はないし、その中間のグレーゾーンもあるからである。

年をとっているのに、自分は若いと思ったり、その逆がある。それでは社会秩序が乱れることになる。20歳になっても、自分はまだ「子供」だと思うので、働きたくありません、というのが増えれば、社会は混乱するだろう。社会が混乱しないために、このため多くの儀式(例えば、七五三、入学式、成人式、入社式、結婚式、退職パーティ)を行なって、子供である、大人になった、高齢者になった、などの自覚を促すと同時に、自分と社会に認知させているのだろう。お陰で、子供、大人、高齢者という分類ができるのである。

子供には、大人や高齢者より優れたものがある。作家の司馬遼太郎によれば、「それは想像力、空想力、さらにそれを基礎として創造力への間断なき衝動であり、この三つは天が子供に平等に与えたものだ。しかし大人になるにつれて消失していく。」という。

しかし、大人になり、高齢者になってもこの三つの心を子供のように瑞々しく持ち続けている人たちも沢山いる。取り分け芸術や科学の世界に多く目立つ。もちろん合気道の開祖、植芝盛平翁などは、典型的な想像力、空想力、さらにそれを基礎として創造力への間断なき衝動をもたれた方であったといえよう。

合気道家はこの「想像力、空想力、さらにそれを基礎として創造力への間断なき衝動」を持たないと、合気の道を進むことはできないだろう。大人というのは子供と比べて、経験、知識、判断力、調和の感覚、責任感が要求されるので、この子供の心「想像力、空想力、さらにそれを基礎として創造力への間断なき衝動」を持ち続けるのは難しくなるが、この子供の心は合気道の修行には必要である。

合気道は大人の責任感を持ちながら、子供の心で想像を豊かにし、自分の目標に近づくべく稽古を続けていくのがよいのではないだろうか。

参考文献   『以下、無用のことながら』(司馬遼太郎 文藝春秋)