【第153回】 年を取るのを楽しみに

一般的には、年をとるということは寂しく、侘しいものだ。特に若い内、とりわけ若い女性は、年を取りたくないだろうし、少しでも若くいたいと願うことだろう。

しかし、年を取って死ぬことが避けられないということは、数千年に亘る人類の歴史が証明している。従って、年を取ることは自然のことと受け入れ、それに順応した、またはそれを利用した生き方をした方がよいだろう。

ほとんどの人は、60歳とか65歳になると仕事の第一線から退き、それまでより自分の時間が持ちやすくなる。当然、合気道の稽古も変わってくるはずだ。若い頃、仕事の忙しい頃のたまの稽古は、主に仕事で抑圧された体力と精神の発散のためのもので、技の練磨や合気道を本当に探求しようとする余裕などないだろう。

私の場合でも、65歳の定年でやっとそれまでの忙しい仕事から解放され、時間的また精神的に余裕ができてから、それまで思うように出来なかった合気道の技の練磨、合気道の道の探究が出来るようになった。もちろん、それまでも合気道は一生懸命やったつもりだったが、定年になってからの稽古と比べてみると、それまでの稽古は点的な稽古であり、毎回々々の稽古にあまり繋がりのない不連続的なものだった。時間ができてからの稽古は線的なもの、つまり前の稽古と繋がっていて、薄紙の厚さだが、少しずつ積み重なっていく、連続的で堆積型になったといえよう。

人が何かを真剣にやろうとすると、自分が想像していた以上にできるようである。合気道は「道」であるので、その修行は合気道の道を極めることである。そのためには、技を極めていかなければならないことになる。「道」を極めるにも、そして技を極めるのもやるべき事とその順序がある。それを一つ一つ身に付けて行かなければならない。やるべきことから逃げたり、サボってやらなかったり、順序を間違えれば、技を極め、そして道を極めるのは難しくなることになる。

合気道の道を進むことが修行であるから、自分が道のどの辺まで進んだのかは分かるだろうし、去年とくらべてどれだけ進歩したのかもわかる。注意すれば、ひとは一年で想像以上に進歩出来ることが分かる。一年前には分からなかったこと、出来なくて悩んでいたことを、今分かってきたとすれば、進歩したことになる。一年前に出来なかった技が出来れば大きな進歩である。一年で進歩があれば、来年までの一年の進歩も期待できる。

そうすれば、10年後20年後の進歩が楽しみになるだろう。80歳、90歳の自分がどんな合気道をしているか、想像すると楽しいではないか。それまで生きているかどうか分からないではないか、と言う人がいるかも知れないが、そんなことは二の次である。お迎えを決めるのは自分ではない。あちらさんである。自分にできるのは精一杯生きて、出来るだけ長く稽古をするだけである。自分が最も年を取った時、その時にどんな合気道が出来るかを楽しみにして、修行していくだけである。

まだ70歳にもなっていない。80歳、90歳になったらどんな合気道ができるのか、楽しみである。早くもっと年を取りたいものだ。