【第152回】 歩け歩け

今の世の中は便利になった。食べるものは出来合いを買って食べることが出来るし、調理するにしても、台所の栓を捻れば水道もガスも電気もすぐ使える。子供の頃、町内の共同水道にバケツで水汲みをし、かまどや七輪で火をおこしてから鍋や釜をかけて調理をしたのとは、大違いである。

また、その頃はよく歩いた。魚とりや山歩きで朝から夕方まで走り回っていた。金もなかったし、交通の便も交通網もよくないので、電車やバスなどはほとんど使わなかった。当時はマイカーなど持っているのは周りにはいなかったし、少し遠い高校にいくのに自転車を使うようになったのが変化であった。

今の日本人は足を使わなくなったのに、もっともっと楽をしようと、ますます自分の足を使わないようにしている。東京の公共機関の交通網は一枚の地図に収まらないぐらいの煩雑さであるが、まだまだ増えようとしている。人間は本能的にすこしでも楽をしたいと思い、科学やビジネスがそれを加速させる。高齢になると、脚を使わない傾向はますます強くなる。

運動や合気道をやるのは、この怠惰になろうとする自分に活を入れ、本来の体にもどしたいと思うのではないか。

足を遣うと内臓も活性化するし、頭も働くようになるようだ。歩けば消化がよくなるし、哲学者のカントとまではいかなくとも、よい考えがでてくるものだ。歩くのはいいというより、歩くことは人間の基本といえよう。つまり歩くことを前提に、体は出来ており機能しているのだろうと思う。従って、歩けなくなったり、歩かなくなると、体の他の部分の働きと頭の働きが衰えることになる。

合気道は技を極めるべく、足に体をのせて動きまわるが、足が敏捷で強健に働かないと、技は利かないものである。怠惰な足でやっても、上手くいかない。稽古でお世話になる足は、怠惰に陥ようとするものを阻止し、十分働かせなければならない。足を十分働かせるというのは、遣うこと、つまり歩いてやることである。

現代は忙しい世の中になり、足が十分働くまで歩くことは難しい。世の中は、交通機関を利用しての時間割やスケジュールを組む。歩いて行く場合を考えた時間的配分ではない。都内の会合場までの時間は公共交通機関で一時間以内、大阪への出張は新幹線や飛行機で日帰りという具合である。私は歩いて行くのでといっても、真面目に受け取るひとはいないだろう。これでは、1日に1時間歩くのも難しい。

毎日十分歩けないときは、休みの日に歩くのがよい。出来れば8キロ以上、2時間以上歩くとよい。なぜ8キロ以上かというと、歩き始めて4キロほどで疲れが出てきて、脚が張ってくるはずである。ここでやめてしまっては脚は凝ったままになる。そこを我慢して歩き続け、8キロぐらいになると、今度は今までの脚のしこりが消えて、脚が軽くなる。まるで雲の上を歩くようになる。

脚が軽くなるだけでなく、内臓がすっきりして体も軽くなり、目の疲れも取れるし、頭もスカッとしてくる。人によってキロ数や症状に違いはあるだろうが、人間の体のつくりや働きは同じなのだから、同じような結果が出るはずだと考える。私は他人になれないのだから、こういうしかない。

8キロ、つまり昔流に言えば2里を歩くのはいいが、田舎ならともかく、都会に歩く場所があるのかということになるだろう。それが、都内にもある。高尾山だって東京都だから山歩きでもいい。山は苦手だからと平地を希望するひとには、川に沿った遊歩道をお勧めする。神田川、善福寺川、多摩川上水など都内には多くの川があり、河川には遊歩道がある。車は走らないので、自転車にちょっと気をつければよい。

2里ほど歩いて、脚も体も軽くなって、道場で稽古をすると、また違った稽古ができる。足は敏捷にそして力強く働いてくれるし、胃腸などの内臓もすっきりし、体も軽快で気持ちがいいものである。

たまには川に沿って遊歩道でも歩くことをお勧めする。歩けるうちは、健康といえる。歩けなくなったら、人間つまらないだろう。今の内に歩く楽しさを満喫し、健康であることに感謝してはどうか。歩け歩け、である。